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風媒結婚
ふうばいけっこん
作品ID45360
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第四巻」 筑摩書房
2002(平成14)年6月20日
初出「文學時代」1931(昭和6)年7月
入力者宮元淳一
校正者砂場清隆
公開 / 更新2008-02-08 / 2016-05-09
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 或る理学士のノートから――

     一

 この望遠鏡製作所に勤めて、もう半年あまり経ち、飽性である僕の性質を知つてゐる友人連は、あいつにしては珍らしい、あの朝寝坊がきちん/\と朝は七時に起き、夕方までの勤めを怠りなくはたして益々愉快さうである、加けに勤めを口実にして俺達飲仲間からはすつかり遠ざかつて、まるで孤独の生活を繰返してゐるが、好くもあんなに辛抱が出来たものだ――などゝ不思議がり、若しかすると、あいつ秘かに恋人でも出来て結婚の準備でもしてゐるのかも知れない――そんな噂もあるさうだが――そんなことは何うでも構はない。
 兎も角僕は、この勤めは至極愉快だ。
 僕は、Girl shy といふ綽名を持つてゐるが、近頃思ひ返して見ると僕のそれは益々奇道に反れて――これは何うも、変質者と称んだ方が適当かも知れない。恥しい話だ。
 こんな秘かな享楽は、他言はしないことにしよう。

     二

 製作所の屋上に展望室と称する一部屋があつて、これが僕の仕事場である。僕は此処で終日既成品の試験をするために、次々の眼鏡を取りあげて四囲の景色を眺めてゐるわけである。楽器製作所の試音係と同様の立場である。四畳半程の広さをもつた展望室には、僕を長として一人の少年給仕が控へてゐるだけである。
 朝九時――僕は窓を展き、仕事椅子に凭つて、A子の部屋を観る。電車通りを越した向ひ側の高台にあるさゝやかな洋館の二階であるが、一間先きに眼近く観ることが出来るのだ。勿論向うでは、此処に斯んな図々しい展望者が居て、厭な眼を輝かせてゐるなどゝいふことは夢にも知らない。
 A子は、朝、一度起き出でゝ、窓を開け放してから更に眠り直すのが習慣である。潔癖性に富んだ娘である。窓と並行にベツドが置かれてあるので、A子の寝顔が、若し此方を向いてゐれば、息づかひも解るほどはつきり見える。その上窓の横幅と寝台の長さが殆ど同じであるから、その寝相までが手にとる如く見えるのである。――此方に、こんな建物が一つあるが到底肉眼では窓と窓の顔は判別も出来ぬ距離であるし、他にはA子の窓をさへぎるものは、それこそ鳥の影より他にはない渺々たる天空に向つてゐるわけであつたから、睡眠者は気兼なく窓を開け展げて爽かな眠りをとることが出来るわけである。
 A子は、規則正しく九時に起床する。僕の執務時間は九時からである。――が、僕は大概八時か八時半に出勤して、直ちに仕事にとりかかるのが慣ひになつた。
 稀に見る勤勉家だ、何といふ好もしい学者肌の青年だらう――と此処の所長は僕のことを噂してゐるさうだ。
 思へば汗顔の至りだ。

     三

 彼女の父親の名前は僕も兼々聞き知つてゐた神経病科の有名な医学博士である。
 僕は、好奇心的野心を抱いて、患者となり済まし(が、診察を受けて見ると、やつぱり僕は神経衰弱症患者ではあつたが―…

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