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まぼろし
まぼろし
作品ID45366
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第五巻」 筑摩書房
2002(平成14)年7月20日
初出「文藝春秋 オール讀物 第三巻第四号」文藝春秋社、1933(昭和8)年4月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-11-27 / 2014-09-21
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 和やかな初夏の海辺には微風の気合ひも感ぜられなかつた。呑気な学生が四五人、砂浜に寝転んでとりとめもなく騒々しい雑談に花を咲かせてゐた。
「ゆらのとをわたるふなびとかぢをたへ ゆくへも知らぬこひのみちかな――か、今となると既にもうあの頃がなつかしいな、いや、満里のところの歌留多会がさ。」
「柄にもない眼つきをするない、こいつ!」
「ところが俺には、れつきとした懐し味の思ひ出があるんだから大したもんだらう、まあ聞けよ。」
「しかし……」
 その時、砂日傘の下でポータブルの鍵を巻いてゐたひよろ長い男が厭に沁々とした口調で、
「これだけ達者な面々が、いつも顔をならべてゐて誰一人として、これといふほどのラヴ・アツフエアを起さないなんて、考へて見ると実に慨嘆のいたりぢやないか。寄るとさはるとたゞ騒々しく女の美しさばかりを讚へてゐて、悶々としたり、感傷的になつたりして堂々廻りをしてゐるなんて、一体、諸君!」
 故意とらしい演説口調で重さうに腕組をすると、さつき何か云ひ出さうとした見るからに元気者らしい剽軽な男は、
「田八は直ぐに真面目さうな顔をするんで厭になるな。小説ぢやあるまいし左う左う恋愛事件などがあつて堪るものか。この空しさの中で次々に抒情味を感じてゐれば、それが青春といふものなんだ。」
 話の腰を折られて、こゝろもち顔を赧らめながら低い声で呟いた。
「一体諸君、君達は自分を憐れと思はないかしら――俺は今日限り決心したぞ、何うしても恋人を探さずには置かない。」
 前の男が関はずそんなことを続けると、
「左う云はれて見ると俺も凝つとしては居られなくなつたな。まつたく何うも一刻さへも惜まれるぞ……」
 大きな口をあけて上向に寝て、裸の胸や腹を空に曝してゐる就中呑気者らしい一人が、やけに賛同して、突然、
「鯨だあ!」
 などゝ叫んで、そのまゝ煙草の煙りをふうつと吐き出した。煙りが細長くすい/\と延びて傍らの砂日傘の上に達しても消えなかつた。誰が何を饒舌つても、争つても忽ち消えてしまつて一沫のよどみも感ぜられない底の実にも長閑な春の午近い海辺であつた。
「おつそろしい長え呼吸だな、こいつは!」
「ルーテル博士のおなかのやうぢや!」
「こいつの腹を思ひつきり踏み潰したら、さぞかし胸がすくだらうぜ。」
 皆ながげら/\と笑つた。が、演説口調は見向きもしないで、
「皆なは、例へばこの頃の満里百合子さんの場合にしろ、てんでんにあんなに逆上して、夢中になつて召使はれてゐるんだが、彼女が間もなくすつと消えてしまつたら何うだ、いや消えるにきまつてゐら……」
 彼は思はずグツと喉を詰らせた。――「斯んなに騒いでゐる俺達の誰ひとりもが、彼女の脚にさへも触れることなしに……」
「慨嘆も好いが、きはどい感情に走るな――左う聞いたゞけで俺の胸から腹へかけて、突如、稲妻のやうな冷いものが猛烈…

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