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![]() やまおとことだんそうのびじょ |
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作品ID | 45368 |
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副題 | ミツキイのジヨンニイ ミッキーのジョンニー |
著者 | 牧野 信一 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「牧野信一全集第四巻」 筑摩書房 2002(平成14)年6月20日 |
初出 | 「文藝春秋 オール讀物号 第二巻第六号」文藝春秋社、1932(昭和7)年6月1日 |
入力者 | 宮元淳一 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2010-02-17 / 2016-05-09 |
長さの目安 | 約 26 ページ(500字/頁で計算) |
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一
糧食庫に狐や鼬が現れるので、事務所の壁には空弾を込めた大型の短銃が三つばかり何時でも用意してあつたが、事務員の僕と、タイピストのミツキイは、狐や鼬に備へるためではなく、夫々一挺宛の短銃を腰帯の間に備へるのを忘れたことはなかつた。夜、夫々のベツドに引きあげて眠りに就く時にも枕の下に、それを入れて置くことを忘れてはならない――と約束し合つてゐた。
村里から馬の背をかりて七哩も登つた山奥の森林地帯で、谿流の傍らに営まれてゐる伐木工場である。僕は、工場主であるアメリカ人のミツキイの父親に雇はれて、その一ト夏をそこの山小屋で働くために、「冒険」といふ言葉に止め度もなく麗らかな憧れを抱いてゐる十八才のミツキイを伴つて、早春の頃から山に住んだ。
橇引きの伝は、名前よりも狼といふ仇名の方が有名で、何年か前に村里の居酒屋で酌婦の奪ひ合ひから大立廻りを演じて、相手の炭焼の男を殴り殺した。山猫といふ通称を持つた樵夫の吉太郎は、嘗ては強盗を働いた経験があるといふことを、山で酒に酔ふと(里では決して口にしないといふ。)寧ろ得意さうに吹聴するのが習慣であつた。現在でも、春秋二季に訪れる山廻りの役人が現れると「狼」と「山猫」は、森林の一番奥の洞窟にかくれて、二日でも三日でも、其処に泊つてゐるとのことであつた。二人の他にも、役人の眼を怖れて洞窟に逃げ込む連中には、やはり、猪とか、山犬とか、荒熊とか、モモンガアとか、蝮とか、禿鷹とかいふやうな動物の名で称ばれてゐる、それはもうたしかに土人と云ふより他に見様のない人物が居たが、僕は屡々彼等と共に酒盃を挙げたり、村里に繰り込んで彼等の鞘当喧嘩の仲裁をしたり、また、山小屋の囲炉裡の傍らで開帳される博打の車座に加はつて、勝利を得たこともあるが、一度だつて危害を加へられたこともなかつたし、また僕の見たところに依ると、寧ろ彼等は独特の人情に厚かつた。
「それあさうですとも――」
と僕がいつか彼等の不思議に温厚な恬淡さを見て首をかしげると、山番の老爺が嗤つたことがある。「皆なは一生この山の中で暮す決心を持つた独り者なんだから、女のこと以外で争ひなんて起すことはありませんよ。」
山番は熊鷹といふ通称で、五十年もこの山で働いてゐる人望を集めた山長であつた。彼も亦、独身者であつた。で僕は、何うしてこの山の労働者は悉く独身者であるのか? と質問すると、彼は更に皮肉気な嗤ひの皺を深めて、
「この森の中に女が現れたら大変だ。誰の女房もくそもあつたものぢやない。忽ち、寄つてたかつて喰ひ殺してしまひますからな。」
彼は、さういふ類ひの怖ろしい挿話をいくつも語つたが、そんなやうなわけで、結局山の中には女は住めない、山の神様は女は不浄なるものとして住むことを許さぬ、山の中に現れた女は神様へのいけにえとして喰ひ殺してしまふことが、神へ対する最も忠実な…