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裸虫抄
らちゅうしょう
作品ID45371
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第五巻」 筑摩書房
2002(平成14)年7月20日
初出「新潮 第三十二巻第三号」新潮社、1935(昭和10)年3月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-11-27 / 2014-09-21
長さの目安約 23 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 横須賀にゐる妹(彼の妻の)のところで、当分彼の息子をあづかりたいと云つて寄越したのである。子供のない慎ましい夫婦暮しで、文学の本ばかり読んでゐる妹であつた。彼の息子は、彼が転地療養をすることになつたが、学校の都合で東京の親戚にのこつてゐた。
「トモ子のところなら安心だわ。トモ子はだらしがないけれど、ひとのことには親切だし、それに朝雄さんが責任の強い人だし。」
 と彼の妻は落着いてゐた。
 彼は半年ばかりの間、その町から五六里も離れた山奥の村で病養の日をおくり、ひとまづ母親のゐる町に立ち返つたのであるが、母を交へようとする家庭の雰囲気が、もう好からうとおぼろ気に期待してゐた彼の思惑とは凡そ掛け離れて、彼の膝にとりすがつてさめざめと涙を流す叔母があつたりして、聞くだに陰惨な雲行だつた。倒れかかつたやうな、あばら家で彼の母親は手まはりのものなどを売りながら、寒々と息子の帰りを待つてゐるといふことをきいたので、彼は扶養の責任を感じ、何か生活の上で新しいわづかな希望をさへ覚えて立戻つたのだが、三日も経たぬうちに、やはり彼は放浪を決心しなければならなかつた。
「停車場に降りると、電話を掛けたんだよ、自分としては別段敷居の高いこともないんだが、俺の顔を見て、若しや、慌てて逃げ出すやうな人があると、此方が堪らなくてれ臭いんでね。」
 彼は銀行に勤めてゐる従弟を訪ねて、そんなことを云つた。――「まるつきり別の家の人が出る始末さ。」
「知らなかつたの、とつくに売つてあることも――?」
「来て好かつたと思つたよ、その時俺は――噂にきいた通り阿母は痩我慢をしてゐるのだと思つたから――」
「君なんか何うせ何処に住んだつて関はないんだらうからな。」
「そんなこともないんだけれど、斯うなつた以上は阿母と離れては居られないと――」
 彼は、云はば爽々しさを感じて、順当な息子らしい忠実に浸つてゐたのだから、
「――喰ひ詰めるとは戻つて来るんだつて。」
 そんな意味のことを母親が洩してゐると聞くと、呆気にとられるだけだつた。何で、彼が戻つて来たかといふぐらゐのことは、母親にだつて十分に感ぜられてゐるし、若し真実に喰ひ詰めたものなら、凡そ吾家になど戻れる筈もない吾家の状態は、何年も前から解りきつてゐるにも係はらず、事更に彼を目して不良児らしく吹聴せずには居られない母親の、胸中の矛盾を想像すると彼は息も絶え絶えになつた。彼は憂さ晴しの酒を飲めるやうな健康ではなかつたので、生死の間をさ迷ふやうな心持で、凝つと腕組みをしたまま思案ともつかぬものに耽つてゐると、母親は急にこそこそと片づけごとをはじめたり、あちこちの箪笥に錠をおろして別の家に赴いたまま幾日でも帰らなかつた。彼は、これまでの自分の不しだらや我儘だつたことは、口にも出して詫び、ひたすら安穏を祈る心のみだつたが、沼気のやうな重苦しさは日毎に深…

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