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露路の友
ろじのとも
作品ID45372
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第四巻」 筑摩書房
2002(平成14)年6月20日
初出「文藝春秋 オール讀物号 第二巻第四号」文藝春秋社、1932(昭和7)年4月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-02-12 / 2016-05-09
長さの目安約 23 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 おそく帰る時には兵野は玄関からでなしに、庭をまはつて椽側から入る習慣だつたが、その晩は余程烈しく泥酔してゐたと見へて、雨戸を閉めるのを忘れたと見へる。
 朝、階下の者が慌しく兵野の寝部屋をたゝいて、
「盗棒が入りました。」
 と呼び起された。
 主に兵野の衣類ばかりが紛失してゐた。彼は酒呑みで、着物のことには殆んど頓着なかつたから、それらは主に彼の亡くなつた父親からのものばかりであつた。着物の他には、彼の中古のソフト帽と金時計とステツキが見あたらなかつた。金時計とステツキは、やはり父親からのもので、時計は太い金の鎖が附いてゐる古型のもので、兵野には似合しくなかつたから一度も使用したことはなかつたし、またステツキも小柄の兵野には凡そ不適当の太い籐のもので、握りにはきらびやかな獅子頭が附いてゐるといふ風な老紳土用のものだつたから、ついぞ兵野は持出したこともなく箪笥と壁の隙間に倒し放しになつてゐたものである。
「でも、一応、交番へ届けておきませうかね。」
「――止めておかう。」
 と兵野は云つた。「僕は、もう何うせ和服は着ないつもりだから……要らないよ。」
 兵野は、さういふことには(もつとも、はぢめてのためしではあるが――)ほんとうに恬淡であつた。惜しいとか、残念だつたとか、そんな心持はみぢんも起らなかつた。
 自分は何うであらうとも、盗難に出遇つた場合は届け出をしなければ法に合はない――とか、大きなことばかりを云つてゐたつて何うせ着物なんて買へやしないのだから届けておいて、万一戻りでもすれば幸せぢやないか――などゝ、兵野の細君と、大学生の松田達が切りと、不満の煙りをあげてゐたが、
「ぢや、何うでも君達の好きなようにしといて呉れ――」
 兵野は、左う云ひ棄てゝ慌てゝ二階へ駆け戻ると、こんこんと眠つてしまつた。
 その後、その話は兵野のうちでは誰も口にしなかつた。無論、兵野も忘れてしまつた。
 そして、一年ばかりの時が経つた。
 兵野の酒は、だんだんたくましくなつて帰りの遅い晩が度重なつてゐた。
 或る晩彼が――いつものやうに銀座裏の酒場で十二時となり、郊外へ戻つて来たが、何うも飲み足りないので、途中の、場末の露路らしいごみ/\とした横町で車を降りてから、あちこちを物色すると、未だ、中から呑介連の声が切りに響いてゐる居酒屋を見出したので、雀躍りをして飛び込んだ。
 中は、仲々の盛況で、二坪ばかりの広さのところに細長いテーブルが二列に並び、学生風の男が二人と、飯を喰つてゐるカフエーの女給風の二人伴れと、奥の隅で数本の徳利を眼の前に並べた中年の会社員風の男と、その他、未だ二三人の商人風の人達が、夫々さかんに盃をあげて、談論の花を咲かせてゐる最中であつた。
「お君ちやん、ちつたあ俺のところに来てお酌をして呉れよ。淋しいからなあ!」
 さう云つたのは、最…

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