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タンタレスの春
タンタレスのはる
作品ID45376
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第六巻」 筑摩書房
2003(平成15)年5月10日
初出「モダン日本 第七巻第六号」文藝春秋社、1936(昭和11)年6月1日号
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-12-09 / 2014-09-21
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 その頃ナンシーは、土曜から日曜にかけて毎週きまつて私を横浜から訪れて、私に従つて日本語を習ふのだと称してゐた。彼女と私の父親同志がボストンの大学でクラス・メートであつた。ナンシーの父親は山下町にオフイスをもつて、小規模の貿易商を経営してゐた。彼女は其処で、タイピストとして働き、ブリウ・リボンという綽名を持つてゐた。彼女はいつも空色系統のドレスを好み、スレンダーな容姿が何といふこともなく瀟洒で、微風の翻へる一片のリボンのやうな感じを与へるといふ評判から、そんな羨むべき綽名を近隣の男友達から与へられたらしかつた。自分でもそれを悦んでゐるらしく、やがて私に寄す手紙にもB・Rと署名したりした。手紙といふのは、若しも土曜日に他の約束が出来て熱海にゐる私を訪れ難い折に、簡単な断り状に過ぎなかつた。――いつの間にか私は、土曜日の午頃までに、彼女の手紙が来ない――と決るまでは何か苛々として落着きを逸した憂鬱な青年と化してゐる自分に、気がつきはじめてゐた。そして私は、ひとりであかくなつた。郵便! といふ声を、それまでは何んなに慕はしく待ち焦れ、どんな類ひの手紙でも四五回は繰り返して読むのをわずかな楽しみにしてゐた、そのくせ孤独好きな私が、ちかごろは郵便夫が自分のうちの門を素通りするのを見とゞけた時に、吻つと胸を撫でおろすといふほどの変り方であつた。
 私は、彼女が私に寄せてゐる凡ての好意をひそかに最も微細に分析しても、決して、たゞ彼女としては呑気なお友達として私を遇してゐる以外の何ものをも見出すことの出来ないのが、可成りの痛手であり、途方もない自分の感情に赤面するばかりであつた。
 汽車が未だ止まるか止まらないうちに、いつも彼女は一番先きに改札口を飛び出し、薄ぼんやりと出迎へに現れてゐる私を見出すやいなや、いきなり私の腕の中にころげ込んで、熱い頬を寄せた。
「どのくらゐ待つたの?」
 と彼女は先づ訊ねるのが習慣だつた。そして私が、たつた今来たばかりだ――と答へると、彼女は、
「ありがたう……」
 とうなづき、直ぐに腕を組んで颯々と歩き出したが――三十分も待つたよ、などゝ云ふと、如何にも気の毒さうに眉を顰めて、
「あたしをゆるしておくれ、あたしを……」
 と繰り返して、私の頬つぺたや額にいくつもの接吻をおくつた。――私は、それが息苦しく悲しく、自分の悒鬱な魂がこの上もなく惨めになつた。だが、それにしても、その場合の惨めな自分の恍惚状態を、私は貴重と選ばうとするのを吾ながら寧ろわらはずには居られなかつた。――相手は、たゞ習慣と礼儀を守つてゐるだけなのに、自分ばかりが腹の底から震へあがつたり、とてつもない空想に思はずよろめいたりするのを、私は吾ながら軽蔑せずには居られなかつた。さういふ私に反比例して、彼女は次第に私との友情に隔てを忘れ、恰も私を、何も知らない少年と遇するかの…

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