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スプリングコート
スプリングコート |
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作品ID | 45400 |
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著者 | 牧野 信一 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「牧野信一全集第二巻」 筑摩書房 2002(平成14)年3月24日 |
初出 | 「新潮 第四十巻第一号」新潮社、1924(大正13)年1月1日 |
入力者 | 宮元淳一 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2010-06-16 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 30 ページ(500字/頁で計算) |
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一
丘を隔てた海の上から、汽船の笛が鳴り渡つて来た。もう間もなくお午だな――彼はさう思つただけで動かなかつた。いつもの通り彼は、まだこの上一時間か二時間はうと/\して過す筈だつた。日が射してまぶしいもので、頭からすつぽりとかひまきを被つたまゝ凝と小便を怺へてゐた。硝子戸も障子も惜し気なく明け放されて、蝉が盛んに鳴いてゐた。
「もう暫く眠つてやれ。」
彼は、たゞさう思つてゐた。
丁度彼の首と並行の何の飾りもない床の間には、雑誌ばかりが無茶苦茶に散らばつて、隅の方には脱ぎ棄てた儘の汚いコートが丸まつてゐた。
汽船の笛が、また鳴つた。子供の頃彼は、この笛の音では随分厭な思ひをした。写真だけでしか見知らない外国に居る父のことを想ひ出すのだつた。――その頃の遣瀬なかつた気持を、彼は現在でもはつきりと回想することが出来た。
彼は枕に顔を埋めて、つい此間もう少しで殴り合にさへならうとした位ゐ野蛮な口論をした父を思つた。
「ヤンキー爺!」
彼は、そんなに呟いて思はず苦笑した。肚では斯んなに軽蔑したり、また母や細君の前では一ツ端の度胸あり気な口を利くものゝ、いざ親父と対談の場合になると鼠のやうに縮みあがつてグウの音も出ないのである。
彼は、偶然ずつと前から自分に混血児の妹があるといふことを知つてゐた。無論、それを知つて以来もう五六年にもなるが妹を見たこともなかつた。――汽船の笛を聞くと、妹の空想が拡がつた。――彼は、夢心地で床の間の隅の古びたコートを眺めてゐた。
……「君の、そのコートは古いには古いがとても俺――気に入つてしまつたよ。馬鹿気てだぶついてゐるんだが、そのだぶつきさ加減に奇妙な調和があるよ。肩の具合だつて斯んなだし、袖だつてそんなに長くつて、どうしたつて君の体に合つてやしないんだが、妙にその合はないところが君に調和して……」
彼の友達で洋服の柄とか仕立とかを気にするのを命にしてゐる慶應義塾の学生が、羨し気に彼の肩を叩いて云つた。
「…………」
彼は泥だらけの靴の先を瞶めてイヤに含羞んでゐた。
「それは何処で作つたんだい?」
「…………」
「斯う云ふと変に君を煽てるやうだが、尤も君にはさういふ好さは解らないから困るが、俺、此間オブロモフといふ小説を読みかけたんだよ、その小説の初めの方にオブロモフといふ男の着物のことが書いてあるんだ。彼は部屋に居る時、何か薄いガウンのやうなものを着てゐるさうなんだがね、それが非常にだぶついてるんだつてさ、それはまアどうでもいゝがその形容の詞が面白かつたんだよ、――オブロモフの着物は、彼がそれを着てゐるんぢやなくつて着物の方が美しい奴隷の如く従順に彼に服従してゐるんだつて……少し俺が面白がり過ぎて翻訳し過ぎたかも知れないが――、その彼の体が五つも入る位ゐな……若しそれが脱ぎ棄てゝあつたならば、誰だつてそれが彼の着物…