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山を越えて
やまをこえて
作品ID45403
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第三巻」 筑摩書房
2002(平成14)年5月20日
初出「太陽 第三十三巻第四号」博文館、1927(昭和2)年4月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-09-10 / 2014-09-21
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 彼女等の夫々の父親からの依頼で二人の娘をそちらへおくることになつたから、彼女等を夫々オフイスの一員に加へて貰ひたい、詳しいことは当人達からきいての上で、山の見学を望んでゐる二人の幼い学生達に能ふだけの満足を与へて欲しい――。
 滝は、暖炉の傍で、父親からの英字タイプで打つたそんな意味の手紙を読んで軽い迷惑を感じた。
 その頃彼の自家で主になつて経営してゐた或る山奥の作業場なのだつたが、滝は、「籠る覚悟」――「孤独と睨み合ひをする決心」で、厳格な抱負に酔つて、初めて接した山の天幕的な生活に慣れそめた時だつた。
 ……娘達だから迷惑を感じたといふわけではない、戦ふつもりでゐた孤独の寂涼も来なかつた、何の不足も感じなかつた。面白いやうに孤りの己れに爽やかな悦びを感じてゐた、嘗て「愚」と称んで嘆いた鈍い感情が、太く凝り固まつて、反つて静かな「感謝」を覚えさせてゐた、何といふこともなしヒロイツクな夢を抱いて「苦行をするつもり。」そんな言葉を呟きながら山を登つて来たことなどを思ふと可笑しかつた、彼には、何の苦行もなかつた、圧へなければならない何らの慾も感じなかつた。この怖ろしい鈍さが、気儘に、此処では落ついてゐた――それで、種類を問はず相手が現れることに彼は、軽い戦きを覚えたのである。
 趣味ではなしにアメリカ風の学生気質に習慣づけられてゐる彼の父は、普段から友達の子息達と彼に自由な交際をさせてゐるので、これが若し自家での彼であつたら彼も礼儀を知る小さな主人になることに何の苦もなかつたのであるが、今の彼は余りに冷い独想家であつた。快く彼は「哲学的」になつて、誰を憚かることなく、明るく悩まし気な顔を保ち続けてゐた時だつた。たつた二冊たづさへて来たシヨウペンハウエルの著書を飽かずに翻読してゐた時だつた。彼は、その書の幾十の個所をもそらんじた。そして彼は、己れの意見を樹立することに没頭した。彼は、何ごとかを口吟みながら石を飛んで流れを溯つた。
 彼は、健康だつた。小屋の傍には綺麗な小川があつた。庭の棄石を踏む童のやうに彼は、岩を飛び、影を踏んで、流れを溯つた。寝台のやうな巨巌があつた。椅子のやうな奇石があつた。碑のやうな岩があつた。
 野花があり、芝に覆はれた明るい斜面の見晴しがあつた。橇道を登つて行くと深い森があつた。そこでは、樵夫が樅の大木を目醒しく切り倒してゐた。彼等は、大鉈をふるつて、格闘をする者のやうな動作で忽ち大木の枝を払ひ落した。向ひ合ひの把手のついた大鋸で、夫々の木挽が鯨を料理するかのやうに、手つ取り早く胴切りにした。橇引きの連中は、胴切りの大木を荷にして、隊をつくつて、鈴を鳴しながら橇道を滑走して行つた。
 炭焼小屋からは昼夜の分ちなく呑気な煙りが立ち昇つてゐた。滝は、彼等の誰とも親しくなつてゐたが、彼等の方言が余りに滑らかで、極限されてゐたので、心…

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