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籔のほとり
やぶのほとり
作品ID45405
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第三巻」 筑摩書房
2002(平成14)年5月20日
初出「新潮 第二十四巻第七号(七月号)」新潮社、1927(昭和2)年7月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-09-05 / 2019-02-11
長さの目安約 32 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 どうして此処の座敷の欄間にはあのやうな扇があんな風に五つも六つもかゝげてあるんだらう! 装飾の意味にしてはあくどすぎる! 何となくわけあり気に見えるではないか?
 それにしてもあれは一体何に使ふものなのだらうか? 扇子には違ひないが、あれを扇子に使ふ者は仁王より他にはあるまい!
 樽野は祖母の家に来る毎によくそんなことを思つたことがあるが、別段誰に訊ねようともしなかつた。扇だが、あたり前の扇子と構造には何の相違もない扇だが、中で一番大きいのは雨傘の半型程もある。舞扇のやうに極彩色のものもあれば、淡白な黒絵もある。
 そんな扇が槍や陣笠や弓矢などがかゝげてある欄間の長押に仰々しく拡げて額になつてゐた。
 それが翳扇と称ふものであるといふことを樽野が聞き知つたのは彼が青年になつてからのことである、とても果敢ない恋のやうなこともあつたが、無くつてもそれ位なつまらなさは覚え初める頃なのだ、人に会ひたくない、と云つて隠れてゐればわけもなく胸が一杯になる、旅などが出来る質ではない、その癖灯りがともる時刻になると凝つとして独りではゐられない、そして誰と会つて愉快気な雑談を交してゐても稍ともすればふと面を隠したくなるやうな……そんな初めての憂鬱症に出遇つた頃樽野はこの祖母の家を最も好ましい「隠れ場所」にして、永い滞在を乞ふたことがあつた。
「今はシヤッポといふものがあるからそんなものもいらなからうが、昔はあゝいふ物を、斯う――」と年寄は反り身になつて片手を顔の斜め上にかゝげた。「……斯うして歩いたものさ。」
 顔の見えないやうな仕掛けで誰とでも話が出来れば好いんだが――どうかするとそんな馬鹿気た想ひに走ることがあつた樽野は、悦んで膝を打つた。そして、笑つた。
「斯うしてね……?」と彼は酷く感心しながら口真似したゞけでは足りないで、そこにあつた何かのグラフを取りあげると、見合せてゐる年寄と自分の顔の間に戸立てた。
 だが何故それをあんなに麗々と何時までも彼処にかゝげ放しにして置くのだらう? と樽野が年寄に訊ねたのは、あれからもう何年かの月日がたつて小説家になつた彼が、またこの祖母の家を最も好ましい「仕事の場所」に選んで永い滞在を乞ふた近頃のことである。年寄の家の様子はあの扇の位置に至るまで何の旧と変つてゐるところはなかつた。
 お前の知らないお前のおぢいさんはね、と年寄は、早く別れた良人が、
「あれが嫌ひでね――」と云つた。どうしても手にしないんだ、わたし達がすゝめると、これはまア斯うして飾りものにでもして置くとしようや、さう云つて、わたし達には手のとゞかない彼処にあゝして置くのさ、それがその儘に残つてゐるだけのことだ――と述べた。
 近頃樽野は軽い憂鬱症にとり憑かれてゐた。再び、誰と会つて愉快気な雑談をとり交してゐても稍ともすればふつと面を隠したくなるやうな――。

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