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昔の歌留多
むかしのかるた |
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作品ID | 45406 |
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著者 | 牧野 信一 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「牧野信一全集第三巻」 筑摩書房 2002(平成14)年5月20日 |
初出 | 「婦人公論 第十二巻第六号」中央公論社、1927(昭和2)年6月1日 |
入力者 | 宮元淳一 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2010-08-20 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 17 ページ(500字/頁で計算) |
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三月もかゝると云はれてゐる病院へ滝は、毎日、日暮時に通つてゐた。――今度こそは彼は、之を堅く決行し通さうと念じてゐた。こんなことをきつかけにしなければ、長い様々な生活上の悪習慣から逃れる術がないことを知つた。様々な悪習慣は、彼が命をかけて目当としてゐる仕事までを相当の深さまで踏みにぢつてゐた。仕事に対する情熱は、形ちなく見えすいてゐる垣の彼方で、徒らに激しく炎えてゐるばかりだつた。
彼は、あらゆる摂生に没頭しながら、規則正しい病院通ひを、やがて一ト月近く続けて来た。雨の日などには彼は、裾をからげ、長靴を穿いて怠ることなしに通つてゐた。感興と気分本位の仕事を持つてゐる彼にとつて、それは酷く煩忙な日課であつた。
飲酒の習慣を退ける努力も彼にとつては、厄介な克己心が必要だつた。だから彼は、日暮時が近づいて酒の誘惑を感じ始めるやいなや、慌てゝ病院へ向ふのであつた。
彼は、自分の勉強の為もあつて、妻達とも別居してゐた。――斯んなに忠実に病ひの為に意を用ひてゐれば、間もなく全快するに相違ないと医員から賞讚された。
彼は、波の音を耳にしながら、連夜、夜を徹して机の前に坐つてゐた。たゞ坐つてゐるだけだつた。――彼は、たゞ日増に増長して来る健康者らしい非精神的な欲望のみに面接して飽くまでも戦ひを挑んでゐるだけの自分に気づいて幻滅を感じながら、スパルタ的に坐り続けてゐるだけだつた。彼は、思はず唇を噛んで腕を組むことがあつた。悩まし気に首を振つて、居住ひを正すことがあつた。支那料理の夢を見ることがあつた。――健康が謀らずも己れの眼近かに近附いてゐることを知つて、胸を張つた。
だが、今度こそは、意を通して見せる――彼は、思はずさう声をあげて呟くこともあつた。病ひの為ばかりでなしに、精神上の為に、此処で斯ういふ忍従に堪へることが自分にとつては様々な意味で必要だ、と彼は思つてゐた。
「さつぱり仕事がはかどらないね、毎晩何をしてゐるの?」時々遊びに来るBが、或晩彼の机の上の白紙を眺めながら云つた。Bより他に彼には此処に友達はなかつた。
「たゞ、斯うしてゐるだけだよ。」と彼は、蛙のやうに凝つと無表情で相手を瞶めた。
「偉いね。」
「……」滝は、胸のうちで点頭いた。
「何の余技もないんだね、君は?」
「あゝ。」
「酒を飲まないと君は、話がないんだね。」
「さういふわけでもないが……」
「何だか、気の毒な……置物見たいな。」
「……何か、気晴しになるやうな、遊びを求めてはゐるよ、だけど、こんな気になつたことがないんで、さつぱり見当がつかないんだ。」
「飲酒家の悲しみかね……。当分勉強は休んで、病院通ひだけを専念にした方が……」
「さうだ。」と彼は、窓の外に眼を投げて、何となく恥らふやうに呟いた。
「病院の帰りに毎日俺の処に廻らないか?」
「だつて君は酒を!」
「吾家では此頃麻雀が盛…