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西瓜喰ふ人
すいかくうひと
作品ID45419
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第三巻」 筑摩書房
2002(平成14)年5月20日
初出「新潮 第二十四巻第二号」新潮社、1927(昭和2)年2月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-08-26 / 2014-09-21
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 滝が仕事を口にしはじめて、余等の交際に少なからぬ変化が現れて以来、思へば最早大分の月日が経つてゐる。それは、未だ余等が毎日海へ通つてゐた頃からではないか! それが、既に蜜柑の盛り季になつてゐるではないか!
 村人の最も忙しい収穫時である。静かな日には早朝から夕暮れまで、彼方の丘、此方の畑で立働いてゐる人々の唄声に交つて鋏の音が此処に居てもはつきり聞える。数百の植木師が野に放たれて、野の樹の手入れをしてゐる見たいだ。その悠長な唄声、忠実な鋏の音を耳にしながら、風のない青空の下の綺麗な蜜柑畑を、収穫の光景を、斯うして眺めてゐると、余にでさへ多少の詩情が涌かぬこともない。この風景を丹念に描写したゞけでも一章の抒情文が物し得ない筈はあるまい、常々野の光りに憧れ、影の幻に哀愁を覚えるとか、余には口真似も出来ないが、光りと影については繊細な感じを持つてゐるといふ滝が夢に誘はれないのは不思議だ。木の実の黄色、葉の暗緑、光りの斑点などを此処から遥かに見晴すと丘のあたりは恰度派手な絨氈だ。
 畑通ひの人に途上で遇ふ人は、一ト言彼等の労をねぎらふ言葉以外の挨拶は控へてゐる。余などは、外出する毎にこの雰囲気から圧迫を感じるので好きな散歩も遠慮して、眺めだけに代へてゐるのだ。滝は臆面がない。誰とでも洒々と忙しさの挨拶を取り交してゐる、自身も忙中の人であるかのやうに!
 相手が怪訝な眼付をするのも無理はない。彼は、この節季に昨日などは、一寸と見あげれば村中の人の眼にもつく、あの丘の頂きの芝生で半日あまり熱心に凧を上げてゐた。他人事ながら余は、秘かに顔をあからめずには居られなかつた。創作の構想に余念がないのだらうと思つて、注意は一切遠慮してゐるのだが、それにしてはあの挙動は余りに落着を失つてゐる。決して暢気さうに凧上げをしてゐるのではない。折角あがりについたかと思ふと、慌てゝ引き降す、かと思ふと又直ぐに、糸を伸して駈け出す。頂きから下の畑際まで駈け降りても二度や三度ではあがりつかない。夢中だ。あの凧を拵へるには彼は、長い間素晴しい夜業を続けた。余は、彼が小説の仕事に没頭してゐるのかとばかり思つてゐたのだ。あれ程、始終口にして忙しがつてゐる創作に! 最後に釣りの懸け具合を乞ひに来たのでは余は、始めてそれと解つたのである。余は、内心唖然としたのであるが、眼付までも殺気立つてゐる気合ひに蹴落されて諾々としてしまつたのである。
 兎も角滝に、斯んな辛抱性があるかと思ふと全く意外な気に打たれる。然し余だけは半ば無意識的であるが、努力! に対しては余程の好意を持つてゐる者に相違ない、でなかつたら如何程退屈に身を持て余してゐる者にしろ、近頃の滝と斯んな交際を続けてゐられるわけがない。
(註。この文の筆者であるBは滝と同年で三十一二歳の理学士である。そんな称号は持つてゐたが今では彼は、別段専攻の科目…

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