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蔭ひなた
かげひなた
作品ID45424
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第二巻」 筑摩書房
2002(平成14)年3月24日
初出「中央公論 第四十一巻第五号」中央公論社、1926(大正15)年5月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2010-06-10 / 2014-09-21
長さの目安約 33 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 或る朝、私が朝飯を済ませて煙草を喫してゐるとAが来て、あがらないで、
「君、直ぐ散歩へ行かう、早く早く、直ぐ仕度をして呉れ。君は斯ういふ服装は持つてゐないか? あゝ、さうか、無ければたゞの洋服でよろしい、大急ぎで着換へないか。」と、大変勢急に口走ると私の返事も待たずに玄関を出て、そこの露路を気忙し気に口笛を吹きながらあちこちと往復してゐるのです。見るとAは、鳥打帽子、バンドつきの上着、乗馬ズボン、さう云つたやうな服装で、肩からは大型のマホー罎をぶらさげ、手には葦のステツキを持つてゐます。
 野道を歩き出してから私は、随分しばらく会はなかつたね! と云ひましたが、どうしたのかAの挙動には少しも落つきがありません。尤もAは時々突飛な行動をするので私は今更別段に怪しみもしませんでした。Aは、酒に酔ひでもしない限り殆ど口数を利かない男なのですのに(この点だけが彼と私と似てゐます。)、この日は私の顔色などには頓着なく私には恰で興味のない煙りのやうなことを独りでのべつに喋舌りたてるのです。殆ど息をつく間もありません。そして、俺は今日は妙に亢奮してゐるんだ! と一言説明しました。私も何の質問もしませんでした。
「俺は今小説を書いてゐるんだ。はじめこの第二節から書き出したんだ、幼年篇から。幼年時代のそれに関する環境を様々な叙事に依つて述べてから、三十一歳になつた私がいよ/\その未知の国に向つて出発するといふまでのおそろしく長い物語を計画したんだ。だがこの第二節である幼年篇を先づ書き起して、未だ一歩も本題に入らないうちに突然俺はハタと行き詰つた、場面の選び方も悪かつたのかも知れない、一体俺は筆を執るにあたつて成りゆきのことなどはあまり意に介しない放縦に慣れてゐるのだがそんなに脆く行き詰るとは夢にも思はなかつたのさ。疳癪を起して俺は、いきなり最後に飛込んだ、そしてこれを第一節とした、が、またこれがハタと行き詰つた。」
 Aは何の前説明もなくそんなことを熱のある調子で語ります。これとかあれとか云つても少しも私には解りませんが、Aも頓着しないので私も勝手に彼に喋舌らせておきました。私は碌々聞いてもゐません。ハタと、ハタと、とAが云つたのが聞き慣れない言葉なので面白く響いたゞけです。
「どうして好いか解らなくなつた。昨夜も一昨夜もその前の晩も俺は、まんじりともしないで二つの未定稿を繰り返し/\読んだが、あゝ、駄目だ!」
「へえ! 随分熱心なんだね! 何だか。」
「駄目ではいけないんだ、何んとしても駄目ではいけないんだ、俺は斯うしてはゐられない……行くんだ、行くんだ。」
「何処へ?」
「君、俺に勝手なことを喋舌らせてくれ。実はね、喋舌つてゐないと俺は眠くなつてしまふんだよ、斯うして快活に歩いてゐないと眠くて倒れてしまひさうなんだ。今日で俺は、永い間の昼夜転換を取り戻すんだ、夕方まで何…

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