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秋晴れの日
あきばれのひ |
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作品ID | 45434 |
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著者 | 牧野 信一 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「牧野信一全集第二巻」 筑摩書房 2002(平成14)年3月24日 |
初出 | 「新潮 第四十三巻第四号」新潮社、1925(大正14)年10月1日 |
入力者 | 宮元淳一 |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2010-03-26 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 29 ページ(500字/頁で計算) |
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一
彼は、飲酒があまり体質に適してゐないためか、毎朝うがひをする時に、腹の中から多量の酒臭い不快な水を吐き出した。前には、それは時々のことだつたがこの頃では、これが定めとなつてしまつた。そして、これも前には稀であつたが、この吐く水がなくなると、一層激しく、胸や腹が、空々しく、苦しく、ゲクゲクと鳴つて、それから苦く黄色い胃液を吐き出した。
大体彼は、生来健康な質だつたから、どんな医学的の知識にも欠けてゐた。だから、初めはこれに随分驚かされて、洗面の後暫くの間は何時も精神的な鬱陶しさを強ひられるのが常だつたが、それも今ではすつかり慣れてしまつて、どうかした調子に中途で収まりさうになると、故意に喉を鳴らして技巧的に吐き出すこともあつた。
左様して彼は、毎朝日課のやうに、何となく洞ろな感じに苦しい、酷く騒々しい手水を使ふやうになつてゐた。
彼の四歳になる長男は、毎朝その傍で父の異様な苦悶を見物した。そして、稍ともすればゲーゲーと喉を鳴して、その時彼がするやうに両手を糸に吊された亀の子のやうにひらひらさせて、その彼の苦悶の真似をした。――どんな種類の苦しみに出遇つても、まつたく堪え性のない彼は、その通りに毎朝、縁側の端の、洗面が終れば直ぐに取り片づけてしまふ流しにのめつて、いつも変りなくそんな格好をするのが習慣の一つになつてゐた。
「そんなに苦しいのなら止せば好いのに、お酒なんて、それほど好きでもなさゝうなのに――」
時にはそんな風に傍から哀れまれると、何時も彼は、同じ言葉で毒々しく反対するのが常だつたが、この頃では、思はず鹿爪らしい顔をして、
「さうだなア?」などゝ沁々とした嘆声を洩しながら、わけもない退屈をかこつた。――(意久地がないんだ、肉体ばかりでなく……心が。)――「何か素晴しく激しい運動をしようと思つてゐるんだ、夜になると同時に、ぐつたりとして死んだやうに眠れるほど。酒で眠るのはもう飽きた。」
「運動ツて、何?」
「…………」
水を吐き出す時は、傍で察する程苦しくはなく、たゞその勢ひに伴れて、肩を怒らせたり落したり、手首をひらひらさせたりするが、いよいよ水が枯れて、胃液がほとばしり出る時になると、まさしく格好だけは「七転八倒の苦しみ」であつた。彼は、
「ゲーーツ! ゲーーツ!」と、板のやうに胴体を平らにして、腸を絞つて喉を鳴した。
「ウツ、ウツ、ウ……あゝ、何といふ苦しいことだらう。」
思はず彼は、そんな叫びを洩して、蛙のやうにぺつたりと五指を拡げ伸した手の平でピシヤ/\と縁側を叩いた。また、
「ウーーツ! ウーーツ!」と、今にも息が絶え入りさうなうめき声を発しながら、ぐらぐらする流しの両端に噛りついて、千仞の谷底をのぞく臆病者のやうに上体を前方にのめり出した。また、
「ギヤツ、ギヤツ、ギヤツ!」といふ風な声を出して、徐ろに胸を撫で降したり…