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放し鰻
はなしうなぎ
作品ID45509
著者岡本 綺堂
文字遣い新字新仮名
底本 「蜘蛛の夢」 光文社文庫、光文社
1990(平成2)年4月20日
初出「民衆講談」1923(大正12)年11月
入力者小林繁雄、門田裕志
校正者花田泰治郎
公開 / 更新2006-06-23 / 2014-09-18
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 E君は語る。

 本所相生町の裏店に住む平吉は、物に追われるように息を切って駈けて来た。かれは両国の橋番の小屋へ駈け込んで、かねて見識り越しの橋番のおやじを呼んで、水を一杯くれと言った。
「どうしなすった。喧嘩でもしなすったかね。」と、橋番の老爺はそこにある水桶の水を汲んでやりながら、少しく眉をひそめて訊いた。
 平吉はそれにも答えないで、おやじの手から竹柄杓を引ったくるようにして、ひと息にぐっと飲んだ。そうして、自分の駈けて来た方角を狐のように幾たびか見まわしているのを、橋番のおやじは呆気に取られたようにながめていた。文政末年の秋の日ももう午に近づいて、広小路の青物市の呼び声がやがて見世物やおででこ芝居の鳴物に変ろうとする頃で、昼ながらどことなく冷たいような秋風が番小屋の軒の柳を軽くなびかせていた。
「どうかしなすったかえ。」と、おやじは相手の顔をのぞきながら訊いた。
 平吉は何か言おうとしてまた躊躇した。かれは無言でそこらにある小桶を指さした。番小屋の店のまえに置いてある盤台風の浅い小桶には、泥鰌かと間違えられそうなめそっこ鰻が二、三十匹かさなり合ってのたくっていた。これは橋番が内職にしている放しうなぎで、後生をねがう人たちは幾らかの銭を払ってその幾匹かを買取って、眼のまえを流れる大川へ放してやるのであった。
「ああ、そうかえ。」と、おやじは急に笑い出した。「じゃあ、お前、当ったね。」
 その声があまり大きかったので、平吉はぎょっとしたらしく、あわててまた左右を見廻したかと思うと、その内ぶところをしっかりと抱えるようにして、なんにも言わずに一目散に駈け出した。駈け出したというよりも逃げ出したのである。彼は転げるように両国の長い橋を渡って、半分は夢中で相生町の自分の家へ行き着いた。
 ひとり者の彼はふるえる手で入口の錠をあけて、あわてて内へ駈け上がって、奥の三畳の襖をぴったりと立て切って、やぶれ畳の上にどっかりと坐り込んで、ここに初めてほっと息をついた。かれは橋番のおやじに星をさされた通り、湯島の富で百両にあたったのである。かれは三十になるまで独身で、きざみ煙草の荷をかついで江戸市中の寺々や勤番長屋を売り歩いているのであるから、その収入は知れたもので、このままでは鬢の白くなるまで稼ぎ通したところで、しょせん一軒の表店を張るなどは思いもよらないことであった。
 ある時、かれは両国の橋番の小屋に休んで、番人のおやじにその述懐をすると、おやじも一緒に溜息をついた。
「御同様に運のない者は仕方がない。だが、おまえの方がわたしらより小銭が廻る。その小遣いを何とかやりくって富でも買ってみるんだね。」
「あたるかなあ。」と、平吉は気のないように考えていた。
「そこは天にある。」と、おやじは悟ったように言った。「無理にすすめて、損をしたと怨まれちゃあ困る。」
「いや、や…

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