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泥の雨
どろのあめ
作品ID45516
著者下村 千秋
文字遣い旧字旧仮名
底本 「茨城近代文学選集Ⅱ」 常陽新聞社
1977(昭和52)年11月30日
初出「早稲田文学」1923(大正12)年5月
入力者林幸雄
校正者富田倫生
公開 / 更新2006-01-01 / 2014-09-18
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 日が暮れると、北の空に山のやうに盛り上つた黒雲の中で雷光が閃めいた。キラツと閃めく度にキーンといふ響きが大空に傳はるやうな氣がした。
 由藏は仕事に切りをつけると、畑の隅に腰を下して煙草をふかし始めた。彼は死にかけてゐる親爺のことを考へると家へかへることを一刻も延ばしたかつた。けれど妻のおさわが、親爺の枕元へ殊勝らしく坐つて、その頭などを揉んでゐやしないかと想ふとぢつとしてはゐられなかつた。
「畜生、片足を穴へ突つ込んでゐるのも知りやがらねえで」
 由藏は親爺にともおさわにともつかない言ひ方をしてべつと唾を吐いた。やがて煙草入れを腰にぶつこむと、萬能を肩にして立ち上つた。
 道端のくさむらの中では晝のきりきりす[#「きりきりす」はママ]がまだ啼いてゐた。日中、ぢりぢりと燒かれた道の土のほとぼりが、むかむかしてゐる由藏の胸を厭に圧迫して吐氣を催させた。咽喉は痛いほど乾き切つてゐた。
 妻のおさわが親爺の妻にもなつてゐることを知つたのはその半年前であつた。親爺の妻――由藏の繼母はその一年前に死んでゐた。その時親爺は六十八であつた。で嫉妬深い由藏もそれだけは安心して、妻を親爺の傍に置いて十日二十日の出稼ぎに出た。そうした或る夜遲く由藏がかへつて來ると、内から人の肌をなぐるらしい音がぴしりぴしりと聞えて來た。それにつゞいて、親爺が由藏にはとても聞いてゐられないことを繰り返し言つてゐるのが聞えて來た。
 由藏がごとりと戸を開けて入つて行くと、親爺は乱杭のやうな黄ろい歯を現はして、「アフ、アフ、アフ」といふやうな笑ひ方をした。それから、親を親とも思はねえ奴はなぐるより仕方はねえといふようなことを言つて布團の中へもぐり込んだ。おさわははだかつた胸を掻き合せながら土間の中をうろうろした。由藏は何んにも言はずにおさわを力任せに突き倒した。それでもおさわはぐつとも言はなかつた。
 その時由藏は、布團の中の親爺を霜柱の立つてゐる庭へ引き摺り出さうかと思つた。けれど由藏の極度の怒りは彼の身体の自由を縛つてしまつた。彼は土間の眞中に突つ立つたまゝぢりぢりしてゐた。
 やがて由藏の胸には、氷のやうな汗が滲み出たやうに思はれる冷たいものが湧いて來た。その冷たいものは、親爺を人間ではないいやな動物かなんぞのやうに彼に思はせた。そこには、叩きつけても踏みにじつてもまだぐりぐり動いてゐる蛭を見てゐるやうな憎しみがあつた。
 この時から由藏は、親爺の方で死なゝければ俺が死なしてやると思ふやうになつた。
 由藏は十三の秋に始めていまの親爺の顏を見たのであつた。それまで彼は、霞ヶ浦の船頭をしてゐた祖父に育てられてゐた。祖父が死んだときその屍を引き取りに來たのがいまの親爺であつた。親爺は彼を村の家へ連れて行くと、神棚の隅から纜縷布にくるんだものを取り出して来て彼の前に展げた。中には乾からびた猫の糞の…

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