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秋の筑波山
あきのつくばさん
作品ID45622
著者大町 桂月
文字遣い新字新仮名
底本 「心にふるさとがある1 想い遥かな山々」 作品社
1998年4月25日
入力者浦山敦子
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2006-02-10 / 2014-09-18
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 一 関城の趾
東京の人士、若し土曜日より泊りがけにて山に上らむとならば、余は先づ筑波登山を提出せむとする也。
 上野より水戸線に由りて、土浦まで汽車にて二時間半、土浦より北条まで四里、馬車にて二時間、北条より筑波町まで一里、徒歩して一時間、都合六時間以内の行程、これ東京よりの順路なるが、上野発が午後二時二十分なれば、途中にて日が暮るべし。山に上らうといふ者は、それくらゐの事は辛捧せざるべからず。筑波山麓より筑波町まで、ほんの五六町の坂路也。筑波町に着きさへすれば、旅館四つ五つあり。その夜一泊して、翌朝山に上るべし。往復五時間あれば十分也。筑波町にて午食して、昨日の路を帰るとすれば、土浦まで歩きても、その日の中には、東京に帰らるゝ也。
 ことしの九月二十四日と二十五日と、休日が二日つゞきければ、三児を伴ひ、桃葉をあはせて同行五人、上野より日光線に由り、小山にて乗りかへて下館に下る。下館より筑波町まで五里、大島までは馬車通ず。されど、我等は下妻さして行くこと二里、梶内より右折して関城の趾を探り、若柳、中上野、東石田、沼田を経て、一時間ばかりは闇中を歩きて、筑波町に宿りぬ。全二日の行程なれば、筑波登山の外、関城趾の覧古を兼ねたる也。
 日本歴史に趣味を有する者は、何人も北畠親房の関城書といふ者を知れるなるべし。其書、群書類従の中に収めらる。これ当年親房が結城親朝に与へたる手紙をひとまとめにしたるもの也。親房は言ふまでもなく、南朝の柱石也。親朝も、もとは南朝の忠臣なりき。其父宗広は建武中興に与つて大いに功ありて、勤王に始終したりき。親朝父と共に王事につくしたり。宗広死するに臨みて、必ず賊を滅せよとさへ遺言したり。親房の子顕家、鎮守府将軍となりて陸奥に至りし時、親朝は評定衆、兼引付頭人となりて国政に参与したり。後に下野守護となり、大蔵権大輔となり、従四位を授けられ、修理権太夫にまでも進めり。思ふに関東の一大豪族、武略と共に材能もありて、当時有数の人材也。然るに、南風競はず、北朝の勢、益々隆んなるに及び、父の遺言を反古にし、半生の忠節に泥を塗りて、終に賊に附したり。関城書は、親房が関城に孤立せし際、親朝がまだ形勢を観望せるに当り、大義を説きて、その心を飜へさむとせしもの也。辞意痛切、所謂懦夫を起たしむるの概あり。然れども、親朝の腐れたる心には、馬耳に東風、城陥りて、親房の雄志終に伸びず。名文空しく万古に存す。
 当年の関城主は誰ぞや。関宗祐、宗政父子也。延元三年、親房は宗良親王を奉じて東下せしに、颶風に遭ひて、一行の船四散し、親房は常陸に漂着し、ひと先づ小田城に入る。然るに城主小田治久賊に心を寄せければ、関城に移れり。宗祐は無二の忠臣也。親房を奉じて忠節を尽せり。当時、関東は幾んどすべて賊に附して、結城親朝さへ心を飜しぬ。唯々宗祐の関城を根拠として、伊佐城主の伊達行親…

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