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乳の匂ひ
ちちのにおい
作品ID45644
著者加能 作次郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學全集 34」 筑摩書房
1955(昭和30)年9月5日
入力者kompass
校正者小林繁雄
公開 / 更新2010-07-20 / 2014-09-21
長さの目安約 50 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ……その頃、伯父は四条の大橋際に宿屋と薬屋とをやつてゐた。祇園の方から鴨川を西に渡つて、右へ先斗町へ入らうとする向ひ角の三階家で、二階と三階を宿屋に使ひ、下の、四条通りに面した方に薬屋を開いてゐたのだつた。そして宿屋の方を浪華亭といひ、薬屋の方を浪華堂と呼んでゐた。
 私は十三歳の夏、この伯父を頼つて京都へ行つたのだつた。中学へでも入れて貰ふつもりで行つたのだが、それは夢で、着いた晩、伯父はお雪さんといふ妾上りの細君に腰を揉ませながら、
「今夜だけはお客さんやが、明日から丁稚やぜ。」
 と宣告した。そしてその通り、翌日から浪華堂の店先に立たされたのであつた。ありふれた売薬や化粧品を、宿屋の片手間に小売りしてゐたので、他に店員も居なかつた。
 ところがそれからまだ五六日も経つか経たぬに、或日私は使に出された。伯父の留守の時で、主婦のお雪さんに言ひつかつて、西洞院蛸薬師の親類まで、夜具か何かの入つた大きな風呂敷包を持つて行かされたのだつた。
 私は大に面食つた。何しろ昨日今日北国の片田舎から出て来たばかりで、まだ京の市街の東西も知らず、言葉も碌に聞き取れぬ時分のことだつたのだ。四条通りを西へ幾筋目かの辻を上つてとか下つてとかと、道はくはしく教へられたが、もとより充分呑込めもせず、見当もつかぬ位だつた。それに前に一度、七つの時父が京詣りの時一緒に連れられて来て、六条の伯母の家に滞在中、或日一人でうか/\その辺へ遊びに出て迷児になり、通りがかりの見知らぬ男に半日もあつちこつち引つ張り[#挿絵]された揚句、トドのつまりに、着て居た羽織を騙り取られた上、黄昏の場末の街上に置き去りにされた苦い経験があつたので、尚更不安に感じたのであつた。
 だが、勿論拒むべくもなかつた。
「旦那はんお留守の間に早よ行つて来てんか。何でもあらへん、眼つぶりもつてでも楽に行ける。えら行けの丹波行けや。」
 お雪さんはさう事もなげに言ひながら、私にその包みを背負はせるのだつた。包みは大きい割にさほど重くもなかつたが、小さな私の背丈にもあまる位だつたので、それを背負つて歩く恰好は、見るも無態なものだつた。店の片方の壁に、何かの薬の広告用の額鏡がかゝつてゐて、それに映つた自分の姿でそれと知つたのだが、風呂敷包みに手足が生えたとでもいはうか、何のことはない、亀が後脚に立つて蠢いてゐるやうだと、それを私に背負はせたお雪さん自身さへ、思ひ遣りなく手を拍つて笑つたほどだつた。(私はこの時以来、このお雪さんにあまり好意を持たなくなつた。三十五六の、細面の美人顔だつたが、何となく冷つこい、底意地の悪るさうな人に思はれた。)
 京都でも一番目貫きの四条の大通りを、私はそんな恰好でよち/\歩いて行つたのだつた。私は往来の人々や、両側の店々の人々の眼が悉く私の上に注がれ、そしてみんな可笑しがつて笑つてゐるやうな気…

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