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田舎医師の子
いなかいしのこ
作品ID45648
著者相馬 泰三
文字遣い新字新仮名
底本 「日本短篇文学全集 第29巻」 筑摩書房
1970(昭和45)年7月30日
初出「早稲田文学」1914(大正3)年7月号
入力者kompass
校正者林幸雄
公開 / 更新2007-10-05 / 2014-09-21
長さの目安約 77 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 六年振りに、庸介が自分の郷里へ帰って来たのは七月上旬のことであった。
 その日は、その頃のそうした昨日、一昨日と同じように別にこれという事もない日であった。夜の八時頃、彼は、暗く闇に包まれた父の家へ到着した。
 彼は意気地なくおどおどしていた。玄関の戸は事実、彼によって非常に注意深く静かに開けられたのであったが、それは彼の耳にのみはあまりに乱暴な大きな音を立てた。「なあにこれは俺の父の家だ。俺の生れた家だ。……俺は今、久しぶりに自分のふるさとへ帰って来たのだ!」彼は、心の中でこう自分自身に力附けようとした。
 誰もそこへ出て来る者がなかった。彼はそこに突立ったまま、何と言葉を発していいか、また、何としていいか自分に解からなかった。「来るのではなかった。やっぱりここは俺の来る所ではなかった。そうだ。……否、まったく何という馬鹿げた事だ。この家は俺の生れた家だ。……それ、その一間を距てた向うの襖の中には、現在この俺を生んだ母が何か喋舌っているではないか。それがこの俺の耳に今聞えているではないか。そら! その襖が開くぞ。……そして、それ、そこへ第一に現われて来るのが、……お前の帰るのを一生懸命に待っていてくれた妹の房子だ。……六年目に会うのだよ。どんなに大きく、可愛らしくなっている事だか。……」そこへ、自分の荷を運んで車夫が入って来た。色の褪せた粗末な革鞄をほとんど投げ出すように彼の足許へ置くと、我慢がしきれないと云ったように急いで顔や手に流れている汗を手拭でふいた。
 取次ぎに出て来た一人の少女(それが小間使で、お志保というのであるという事を彼は知っているはずはなかった。)が慎ましやかに坐って自分を仰ぎ見ているのに気がつくと、彼は「そうだった。」と思った。「どなたさまでいらっしゃいますか。……どちらからお出になりましたので?」少女は黙ってはいるが、その顔の表情が確かにそう云っているのが解かった。彼はあわてて、少しまご附いて、意味もなく、
「あ、私は……。」こう云った。が、ひどく手持不沙汰なのでそのまゝ口を噤んでしまった。ちょうどその時、
「まあ、兄さんだわ。……兄さん!……ほら、やっぱり妾が当ってよ。」こう云って妹が元気よく走り出して来てくれなかったら、彼は、飛んでもない、重苦しい翻訳劇の白のような調子で、不恰好な挨拶を云い出したかも知れなかったのである。
 祖母、母、今年十二歳になる姪の律子などが珍らしがって我慢なくそこへどやどやとやって来た。
「どんなに待ったか知れなかったわ。むろん、先月のうちだとばっかり思っていたのよ。」
 荷物を内へ運び入れながら、妹は無邪気な、馴々しい調子で云った。これが不思議にも堪え難い窮屈さから救い出してくれた。そしてそれからずーッと数時間の間、安易な、日常茶飯の気分が保たれた。

     二

 父は往診に出…

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