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放浪記(初出)
ほうろうき(しょしゅつ)
作品ID45649
著者林 芙美子
文字遣い新字新仮名
底本 「作家の自伝17 林芙美子」 日本図書センター
1994(平成6)年10月25日
初出「女人藝術」1928(昭和3)年10月号~1930(昭和5)年10月号
入力者kompass
校正者伊藤時也
公開 / 更新2007-05-13 / 2014-09-21
長さの目安約 215 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

   秋が来たんだ

 十月×日
 一尺四方の四角な天窓を眺めて、始めて紫色に澄んだ空を見た。
 秋が来たんだ。コック部屋で御飯を食べながら私は遠い田舎の秋をどんなにか恋しく懐しく思った。
 秋はいゝな……。
 今日も一人の女が来た。マシマロのように白っぽい一寸面白そうな女。厭になってしまう、なぜか人が恋いしい。
 そのくせ、どの客の顔も一つの商品に見えて、どの客の顔も疲れている。なんでもいゝ私は雑誌を読む真似をして、じっと色んな事を考えていた。やり切れない。
 なんとかしなくては、全く自分で自分を朽ちさせてしまうようだ。

 十月×日
 広い食堂の中を片づけてしまって始めて自分の体になったような気がする。真実に何か書きたい。それは毎日毎晩思いながら、考えながら、部屋へ帰るんだが、一日中立っているので疲れて夢も見ずに寝てしまう。
 淋しいなあ。ほんとにつまらないなあ……。住込は辛い。その内通いにするように部屋を探そうと思うが、何分出る事も出来ない。
 夜、寝てしまうのがおしくて、暗い部屋の中でじっと目を開けていると、溝の処だろう、チロチロ……虫が鳴いている。
 冷い涙が不甲斐なく流れて、泣くまいと思ってもせぐりあげる涙をどうする事も出来ない。何とかしなくてはと思いながら、古い蚊帳の中に、樺太の女や、金沢の女達三人枕を並べているのが、何だか店に晒らされた茄子のようで佗しい。
「虫が鳴いてるよう……。」
 そっと私が隣のお秋さんにつぶやくと、
「ほんとにこんな晩は酒でも呑んで寝たいね。」
 梯子段の下に枕をしていた、お俊さんまでが、
「へん、あの人でも思い出したかい……。」
 皆淋しいお山の閑古鳥。
 何か書きたい。何か読みたい。ひやひやとした風が蚊帳の裾を吹く、十二時だ。

 十月×日
 少しばかりのお小遣いが貯ったので、久し振りに日本髪に結う。
 日本髪はいゝな、キリヽと元結いを締めてもらうと眉毛が引きしまって、たっぷりと水を含ませた鬢出しで前髪をかき上げると、ふっさりと額に垂れて、違った人のように美しくなる。
 鏡に色目をつかったって、鏡が惚れてくれるばかり。日本髪は女らしいね、こんなに綺麗に髪が結べた日にゃあ、何処かい行きたい。汽車に乗って遠くい遠くい行きたい。
 隣の本屋で銀貨を一円札に替えてもらって故里のお母さんの手紙の中に入れてやった。喜ぶだろう。
 手紙の中からお札が出て来る事は私でも嬉しいもの……。
 ドラ焼きを買って皆と食べた。
 今日はひどい嵐、雨が降る。
 こんな日は淋しい。足がガラスのように固く冷える。

 十月×日
 静かな晩だ。
「お前どこだね国は?」
 金庫の前に寝ている年取った主人が、此間来た俊ちゃんに話かける。寝ながら他人の話を聞くのも面白い。
「私でしか……樺太です。豊原って御存知でしか?」
「樺太から? お前一人で来たのか…

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