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六号室
ろくごうしつ
作品ID45667
著者チェーホフ アントン
翻訳者瀬沼 夏葉
文字遣い旧字旧仮名
底本 「明治文學全集 82 明治女流文學集(二)」 筑摩書房
1965(昭和40)年12月10日
初出「文藝界」1906(明治39)年4月
入力者阿部哲也
校正者岩渕祐子
公開 / 更新2006-10-03 / 2014-09-18
長さの目安約 93 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

(一)

 町立病院の庭の内、牛蒡、蕁草、野麻などの簇り茂つてる邊に、小やかなる別室の一棟がある。屋根のブリキ板は錆びて、烟突は半破れ、玄關の階段は紛堊が剥がれて、朽ちて、雜草さへのび/\と。正面は本院に向ひ、後方は茫廣とした野良に臨んで、釘を立てた鼠色の塀が取繞されてゐる。此の尖端を上に向けてゐる釘と、塀、さては又此の別室、こは露西亞に於て、たゞ病院と、監獄とにのみ見る、儚き、哀な、寂しい建物。
 蕁草に掩はれたる細道を行けば直ぐ別室の入口の戸で、戸を開けば玄關である。壁際や、暖爐の周邊には病院のさま/″\の雜具、古寐臺、汚れた病院服、ぼろ/\の股引下、青い縞の洗浚しのシヤツ、破れた古靴と云つたやうな物が、ごたくさと、山のやうに積み重ねられて、惡臭を放つてゐる。
 此の積上げられたる雜具の上に、毎でも烟管を噛へて寐辷つてゐるのは、年を取つた兵隊上りの、色の褪めた徽章の附いてる軍服を始終着てゐるニキタと云ふ小使。眼に掩ひ被さつてる眉は山羊のやうで、赤い鼻の佛頂面、脊は高くはないが瘠せて節塊立つて、何處にか恁う一癖ありさうな男。彼は極めて頑で、何よりも秩序と云ふことを大切に思つてゐて、自分の職務を遣り終せるには、何でも其鐵拳を以て、相手の顏だらうが、頭だらうが、胸だらうが、手當放題に毆打らなければならぬものと信じてゐる、所謂思慮の廻はらぬ人間。
 玄關の先は此の別室全體を占めてゐる廣い間、是が六號室である。淺黄色のペンキ塗の壁は汚れて、天井は燻つてゐる。冬に暖爐が烟つて炭氣に罩められたものと見える。窓は内側から見惡く鐵格子を嵌められ、床は白ちやけて、そゝくれ立つてゐる。漬けた玉菜や、ランプの燻や、南京蟲や、アンモニヤの臭が混じて、入つた初めの一分時は、動物園にでも行つたかのやうな感覺を惹起すので。
 室内には螺旋で床に止められた寐臺が數脚。其上には青い病院服を着て、昔風に頭巾を被つてゐる患者等が坐つたり、寐たりして、是は皆瘋癲患者なのである。患者の數は五人、其中にて一人丈は身分のある者であるが他は皆卑しい身分の者計り。戸口から第一の者は、瘠せて脊の高い、栗色に光る鬚の、眼を始終泣腫らしてゐる發狂の中風患者、頭を支へて凝と坐つて、一つ所を瞶めながら、晝夜も別かず泣き悲んで、頭を振り太息を洩し、時には苦笑をしたりして。周邊の話には稀に立入るのみで、質問をされたら决して返答を爲たことの無い、食ふ物も、飮む物も、與へらるゝまゝに、時々苦しさうな咳をする。其頬の紅色や、瘠方で察するに彼にはもう肺病の初期が萠ざしてゐるのであらう。
 其に續いては小體な、元氣な、※鬚[#「丿+臣+頁」、34-下-21]の尖つた、髮の黒いネグル人のやうに縮れた、些しも落着かぬ老人。彼は晝には室内を窓から窓に往來し、或はトルコ風に寐臺に趺を坐いて、山雀のやうに止め度もなく囀り、小聲で歌ひ、ヒヽ…

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