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枯淡の風格を排す
こたんのふうかくをはいす
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「坂口安吾選集 第十巻エッセイ1」 講談社
1982(昭和57)年8月12日
初出「作品 第六巻第五号」1935(昭和10)年5月1日
入力者高田農業高校生産技術科流通経済コース
校正者富田晶子
公開 / 更新2016-11-25 / 2016-09-09
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

「枯淡の風格」とか「さび」というものを私は認めることができない。これは要するに全く逃避的な態度であって、この態度が成り立つ反面には、人間の本道が肉や慾や死生の葛藤の中にあり、人は常住この葛藤にまきこまれて悩み苦しんでいることを示している。ところが「枯淡なる風格」とか「さび」とかの人生に向う態度は、この肉や慾の葛藤をそのまま肯定し、ちっとも作為は加えずに、しかも自身はそこから傷や痛みを受けない、ということをもって至上の境地とするのである。虫がいいという言種も、このへんのところへ来ると荘厳にさえ見えるから愉快である。
「枯淡なる態度」が煩瑣を逃れて山中へでも隠れ孤独を楽しむというような、単に逃避的なものであるならまだ許せるが、現世の葛藤をそのまま肯定し、しかも自身はそこから傷も痛みも受けないという図々しい境地になると、要するにその人生態度の根幹をなすところの一句は、自らの行うところに悔いをもつべからずということである。自らの行うところを善なりとか美なりと強調しない代りには、悪なり醜なりと悔いないところにこの態度の特質がある。自らの行うところは人にも之を許せというと、ひどく博愛にきこえるが、事実はさにあらず、これほどひねくれたエゴイズムはある筈はないし、自分にとって不利な批判的精神というものを完全に取りさろうというのだから、これほど素朴であり唾棄すべき生き方は他にない。人生の「枯淡なる風格」とは自らに悩みの種の批判的精神を黙殺することによって生れた風格に他ならない。
 河上徹太郎氏が人間修業ということを言っていたのは、こういうインチキな諦観をもって至上とする境地に就て説いたものでは無論ないが、元来、これまで日本に於て政治家実業家あたりが人間修業と称して珍重したものは、このインチキな風格であった。後悔や内省は若いというのである。峻烈な自己批判から完全に目を掩うたところで「人間ができた」ということになり、恰も人生の深処に徹したかの盛観をなす、まことに孤り静かな印度の縁覚を目のあたりに見る荘厳だが、根柢に於て、これほど相対的な功利的計算をはたらかせたものは珍しい。悔ゆべきところに悔いを感じまいとする毒々しい虫のよさもさることながら、他人に許されるために他を許そうとする、こういう子供同志の馴れ合いのような無邪気な道徳律が、恰も人生の最深処の盛観を呈しているのが阿呆らしいのだ。枯淡というと如何にも救われた魂を見るようであるが、実は逆に最も功利的な毒々しい計算がつくされている。小成に安んじ悩みのない生き方をしようと志す人々にとって、枯淡の風格がもつ誤魔化しは救いのように見えるかも知れぬが、真に悩むところの魂にとって、枯淡なる風格ほど救われざる毒々しさはないのである。葛藤の中に悩みもがく肉慾吝嗇はどのように醜悪でも、悩むが故の蒼ざめた悲しさがある。むしろ悲痛な救いさえ感じられる…

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