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風流
ふうりゅう |
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作品ID | 45745 |
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著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「坂口安吾選集 第十巻エッセイ1」 講談社 1982(昭和57)年8月12日 |
初出 | 「新潮 第四八巻第十三号」1951(昭和26)年12月1日 |
入力者 | 高田農業高校生産技術科流通経済コース |
校正者 | 富田晶子 |
公開 / 更新 | 2016-11-25 / 2016-09-09 |
長さの目安 | 約 20 ページ(500字/頁で計算) |
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今年いっぱい、日本諸国をかなり足まめに旅行した。人家と山の多いのが、目にしみる。
戦災をうけない都市が、戦災都市と同じように掘立小屋のマーケット街を新作し、屋台店で大道の半分を占領し、戦災都市の窮余の悲風をわざと再現しているのが異様であった。これを日本の風流というのかも知れんと考えた。
それが流行ならば穴居住宅にまで退行するのはそう面倒なことではなく、穴の中にカストリ銀座をつくって間に合せられる風流の持主ではないかと思ったのである。
流行によってそうなるのはまだしも見どころがあるが、ムリヤリ押しつけられた悪生活条件を甘受し、それになれ親しみ、間に合せることを人生の本義とみる気風があって、その気風から発した人生のたのしみ方が風流であるようにも思った。
多くの庶民の気風がそうで、各人各様に風流をたのしみ、間に合せて満足するうちは結構であるが、そこからお説教が現れ、風流や美についての論議や奥儀のみならず、生き方や道徳の深遠な理窟や規定も現れてくると、曰く不可解の謎となり、神仏の霊感や悟道に通じて天上地下の迷路を駈けめぐり、人の素直な気風からは手に負えないもの、煮ても焼いても食えないものになってしまう。
先般、宝塚で「虞美人」を見たら、ホンモノの馬と象が舞台に登場した。変哲もないことだ。実に当然なことでもある。それを使用しても面倒のいらぬ条件ができたから使用しているだけのことであろう。それは理窟ぬきのもので、それを使用するための美学などを要しない問題である。
ところがそれを(馬と象には限らない。すべて過去には制約せられたモロモロのものを)昔の型通りに今も使用しない歌舞伎とか日本の古典芸術というものは、それを使用しないことについて一と理窟や美論がつくから、暗く、ねじくれて難解である。
美や芸を味うことは「考え落ち」のように判じて然る後に理解しなければならないような面倒のいらないものだ。美や芸の裏側には美論や伝統や長年月の修業があるのは当り前のことだ。それは美を表現したり演じたりする当人だけの内輪のことで、それを見物人に押しつける性質のものではないし、それらの助力があってようやく理解せしめうる美も芸もある筈がない。
むしろ何物の助力もなく、理窟ぬきで人に訴え、感動を与えるために、美についての長い思索や苦しい修業があるのだろう。内輪の苦労が表面に重々しげにぶらさがっている美や芸はないのである。
芸術に国境なし、ということは、それを味うために美論だの他国の伝統などの知識を要しないという意味であろう。
終戦後六年の今日、日本各地を旅行して歩くと、異様な、また悲しいことに目をうたれざるを得なくなる。戦災をうけない都市が、戦災都市よりも汚いのだ。
「たった六年間で……」
因果な旅をしたものだ。私はこう考えて、暗い重さを感じたのである。
日本の庶民住宅は貧…