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私の探偵小説
わたしのたんていしょうせつ |
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作品ID | 45752 |
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著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「坂口安吾選集 第八巻小説8」 講談社 1982(昭和57)年11月12日 |
初出 | 「宝石 第二巻第六号」1947(昭和22)年6月25日 |
入力者 | 高田農業高校生産技術科流通経済コース |
校正者 | 小林繁雄 |
公開 / 更新 | 2006-10-24 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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私は少年時代から探偵小説の愛好者であったが、日本で発行されたほぼ全部の探偵小説を読むに至ったのは戦争のおかげであった。
戦争中は酒も飲めなくなり、遊ぶ所もなくなり、雑誌もなくなって小説を書く当もなくなったから、残されたのは読書だけ。私はその頃「現代文学」という集りの同人であったが、この同人の中で探偵小説の愛好者が集って、犯人の当てっこをやりだした。
この方法は、解決のところを切りとったり、糸で縫いつけておいて、回覧して犯人の当てっこをする。平野謙が最も成績優秀で、大井広介、荒正人は怖るべき敵ではないようだったが、私は然し、犯人をピタリと当てたのは二ツぐらいしかなかった。
探偵小説作家と試合したら、とても勝てないだろうな、と平野名人も謙遜していたが、私はそうじゃないと思う。江戸川乱歩、木々高太郎氏等でも、むろん僕では太刀打はできないけれども、平野謙の方が犯人を当てる率が多いと私は思う。
これは作家と批評家との根柢的な相違があるので、作家というものは常々自分自身で何かを編みだす立場だから、公式をはみだしていつも可能性の中を散歩している。江戸川乱歩氏は大勉強家で古今東西の探偵小説に通じているけれども、公式で割切ることが根柢に失われていて、いつも無限の可能性の中にいる筈と思われる。批評家は本来公式で割切る人であり、特に平野名人の如く、系列だの分類というものが生れついて身についている特異体質の悪童は、可能性などという余計な邪魔物に全然患わされるところがないから、黙って坐ればピタリと当てるというように、犯人を当ててしまうのである。
この犯人の当てっこをやって私が驚いたのは、日本の作家の作品には、このゲームに適する作品が全然ないということだった。ミステリイの要素が主で、推理は従である。浜尾四郎氏の作品や「船富家の惨劇」などは推理小説だけれども無理が多い。これは日本の法律とか警察制度とか風俗習慣が全然外国と違っているのに外国流を直輸入して無理に当てはめるための破綻で、怪しい奴は有無を言わさずみんなブタ箱へ入れておいて、証拠などは二の次に白状させるという習慣が厳存しているのだから、名探偵登場の余地がなかったのも尤もな次第であった。
私は然し探偵小説を愛好するのはその推理に於てで、従って、私は探偵小説をゲームと解している。作者と読者の智恵比べ、ゲームというように。
だから専門の知識を必要としなければ謎の解けないような作品は上等品とは思われないので、たとえばある毒薬の特別の性質が鍵である場合には、その特質をちゃんと与えておいて、それでも尚、読者と智恵を競い得るだけの用意がなければならぬと考える。
だから殺人の方法などは、短刀で刺す、ピストルで打つ、なぐり殺す、しめ殺す、毒殺する、なるべく単純であるべきで、謎は殺し方の複雑さなどにあるのじゃなくて、アリバイにある。…