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海の霧
うみのきり
作品ID45797
著者坂口 安吾
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 01」 筑摩書房
1999(平成11)年5月20日
初出「文藝春秋 第九年第九号」1931(昭和6)年9月1日
入力者tatsuki
校正者伊藤時也
公開 / 更新2010-05-04 / 2016-04-04
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 波の上に夜が落ちる。海に沿ふた甃の路に靄の深い街燈の薄明り、夜の暗色と一緒に、噎つぽい磯の匂ひが、急にモヤモヤした液体のやうに、灯のある周囲に浮きながら流れはじめる。ときどき、外国の船員が、影と言葉を置き去りにして、闇の中へ沈没しながら紛れてしまふ。
 黄昏が下りると、僕はこの路で、自分でも良くは知らない何か思案を反芻しながら、一日に一ぺんづつ家路を辿つた。鮎子も一ぺん家へ帰る。どの路をどんな顔貌で通つて来るのだか、駈けて来たやうに、いつも騒しく興奮してゐた。白ちやけた電燈の下で僕達の影が縺れ、興醒めた白さが縺れ、くたびれた神経の罅が、虚しい部屋の中で丁度氷の湯気のやうに、一つの柔らかい靄を殆んど幽かに醸しはじめる。僕は冷い水溜り、黙りこくつて片隅の机に頬杖をつきながら、街の灯に薄く紅紅と映えてゐる潤んだ夜空に眺め入り、又その奥に何か震へる明日の心を探しはじめる、今日も畢れり、と思ひながら……。
「指が痛むわ、治してよ。アア痛痛……ほんとだぜ、キミ」
 鮎子は時々指を痛めた。翌る夜は頭を、翌る夜は踵を、又翌る夜は齲歯を、目を、肋骨を、肩を、耳を。鮎子は禿鷹の険しい眼差を光らせて敏捷に身構へながら、僕の油断を鋭く窺ふ。或時は窓に凭れて、半身を窓掛に潜ませながら、又或時は壁際に佇んで、少年の息差をはずませながら、又或時は部屋のさ中に長々と脚を投げ出して、膝と畳にふうわりとしたスカートの、高低のついた柔らかい半円形を描き出しながら。
「指が痛いんだといつたら……。揉んでお呉れつたら……。揉まないと噛みつくぞ」
 僕はお前の高い調子に乗ることが出来ない。僕はお前の指を揉みながら遠い太洋を百年間も泳ぎ続けて来たやうな、長い疲れに襲はれてしまふ。お前は癇癪を起して僕の頭へ指を突き込む、お前はそれを掻き廻して、イヤといふ程僕を畳へ転がせてしまふ。それでも僕の長い泳ぎは、失はれた藻屑のやうにいつ止むものとも思はれない、僕は深深とした渦巻に酔ひ痴れながら、陥没する木屑のやうに、古い疲れで二つの眼瞼を閉ぢてしまふ。
「陰気坊主! お化け! 間抜け! 弱虫! 意地わる! 気狂ひ! トマト!」
 日本語の語彙は、お前を一晩喋らせておく程豊富には作られてゐない、お前は癇癪で目を泣き腫らし、お前自身が分らなくなる、お前は咄嗟に稚児の心を決めて、爆弾のやうに僕の脾腹へ倒れて落ちる。お前はニヤニヤ笑ひながら、僕と平行に腹這ひに寝てすばやく僕の目の中へお前の笑顔を捩込んでしまふ。
「痛かつて?」
「痛くないこともなかつた」
「近頃健康はいいの……?」
「さう、悪くないこともないが……」
「今日も一日退屈して?……退屈しないこともなかつたのね。ねえ、あたし今日、いろんな事を考へたの……」
 そしてお前はニヤニヤしながら、「いろんな事」を思ひ出せずに探しあぐねて、時々そのまま寝込んでしま…

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