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Pierre Philosophale
ピエール フイロゾファル |
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作品ID | 45804 |
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著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「坂口安吾全集 01」 筑摩書房 1999(平成11)年5月20日 |
初出 | 「文学 第三冊」厚生閣書店、1932(昭和7)年9月18日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2009-06-07 / 2016-04-04 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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小心で、そして実直に働いて来た呂木が、急に彼の人生でぐずりはぢめたのは三十に近い頃であつた。少年のころ見覚えのある景色で、もう長いこと思ひ出さずにゐたのだが、一つの坦々とした平野を夜更けの壁にひろびろと眺めた。古い絵本と静かな物語を思ひ出した。その頃から、働くのが厭だといふのではないが、――いはば、何かしら、そして何かがつまらないと思つたりした。彼はときどき五分ばかり目を瞑つて、そして何も考へてゐなかつた。こうして、併し自分ではそんなことに気がつかずに、又数年間自分としては実直に働いた。
彼はくびをきられた。気がつかないうちに、ひどく疲れてしまつた自分を、その時やうやく、そして記憶のやうな遠さの中に発見し、長い溜息を洩らした。
その黄昏、最後の会社を後にした呂木は、郊外の下宿まで歩いて帰らうと思つた。道はもう闇の底に沈んだころ、途中からひそひそと霙が降りだした。外套の襟をたて、ときどき暗い雪空を振仰ぐと、街燈のまわりだけいつさんに落ちてくる花粉が見えた。呂木はその日風邪をひいて厳しい悪寒に悩まされてゐた。会社の薬箱からアスピリン錠剤を取り出してもらひ、一息に三錠ものんだのだが、そのために、午過ぎてひどいだるさを感じた。夕暮れ、社長室へ呼び込まれて馘首の話をきいてゐるとき、呂木は自分の体臭から夥しいアスピリンの悪臭を嗅ぎ出した。退屈してぼんやり見おろした薄明の街で、丁度暮方の灯が朦朧と光りはぢめたのだ。黄昏が語る安らかな言葉のやうに、それは華麗な静かな靄で呂木の心をおしつつみ、遥かな放心に泌みてきた。ほど経て、一滴のしづくのやうな悲しさを一つの場所に感じてゐた。そして、冷え冷えと漾ふものが一条ばかりゆるやかに身体をぬうて流れていつた。
みちみち、彼は明日、速い急行に乗つて、光と海のある南方へ旅に出やうと考へた。
春が来て、呂木は沢山の女友達にとりまかれてゐる自分を見出した。彼はどの一人も好きな気がした。間もなく、その中では一きわ美貌な、悧巧でおしやれな一人へ特に惹かれる心をみた。その女も呂木を憎んでゐなかつた。呂木は激しい恋情に溺れやうとするとき、のつぴきならぬ退屈を感じ、身も心も投げ出したい落胆を知つた。彼はいそいで出奔して、まるで身体が旅愁のやうな、狂暴な感傷にふるへながら、軌道を忘れた夥しい決意を噛みつづけて彷徨ひ歩いた。三週間。春風と、うらぶれた耀やきのなかに山や海や、潮音のざわめきをもつ見知らぬ街が止み難い癇癪を植ゑて流れ去つた。
呂木は不思議な陽気さで帰京すると、醜いそして世帯持ちの良ささうな二十六の娘へ、唄ふやうな気楽さで結婚を申込んだ。
呂木は心に泣き、呂木は苛酷な神様を愛しはぢめた。女中の質素と従順をもつ素朴な妻は呂木を熱心に愛した。呂木は女を愛したいと思はなかつた。そして、自分の愛さないものが、愛すことのできないものが、最も…