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麓
ふもと |
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作品ID | 45810 |
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著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「坂口安吾全集 01」 筑摩書房 1999(平成11)年5月20日 |
初出 | 「桜 五月創刊号~第二号」中西書店、1933(昭和8)年5月1日~7月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 伊藤時也 |
公開 / 更新 | 2010-06-15 / 2016-04-04 |
長さの目安 | 約 47 ページ(500字/頁で計算) |
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1
「ごらんなさい。あの男ですよ」
村役場の楼上で老村長と対談中の鮫島校長は早口に叫んで荒涼とした高原を指さした。
なだらかに傾斜する見果てない衰微。白樺の葉は落ちて白い木肌のみ冷めたい高原の中を、朽葉を踏み、紆るやうに彷徨ふ人影が見えた。
「毎日ああして放課後の一二時間も枯枝のなかをぶら/\してゐるのですよ。椿といふ、あれが先刻お話した赤い疑ひのある訓導です。間違ひの起きないうちに、出来れば二学期の終りに転任させたいものですがね。うまく欠員のある学校がみつかるといいのだが……」
「はつきりした左傾の証拠はあるかね?」
老村長はぶつきらぼうに訊いた。
「必ずしも。はつきりしたことは言へませんが。この間違ひに限つて一度おきたら取返しのつかない怖ろしいことになりますからね。学校も。村も」
校長は分別くさい顔付をして、その顔付をでつぷりした上体ごと村長の前へ突き延した。
老村長は顔をそむける。その分別くさい顔付は見たくもないと言ふやうに。そして茫漠と夕靄のおりそめてきた高原の奥を眺めふける。
窓硝子に迫まる重苦しい冬空。冬空の涯は遠景の奥で夕靄につづき、そして地上へ茫漠と垂れ落ちてゐた。そこでは大いなる山塊も古い記憶の薄さとなり、靄の底へ消え沈もうとしてゐた。流れ寄る黄昏にせばめられた荒涼。なほ大股にうねる人影が隠見した。
「はつきりしない嫌疑であの男を転任させるのは儂は好まない。左傾する者はどこへ行つても左傾する。そして一人の校長先生が迷惑する。一人の校長先生がな。同じことではないか」と呟いた。
「今夜僕の家へあの男をよこしたまへ。儂はあの男と話してみやう。万事はそれからで遅くない」
老村長はたどたどしい足どりで帰つていつた。
猪首の校長もぶり/\しながら学校へ戻る。外へ出ると興奮してゐる。なんて物好きな、わけの分らない老耄なんだ、あいつは!
老村長は氷川馬耳といつた。五十五だが六十五にも七十にも見え、老衰が静かな哀歌となつてゐる。彼の顳[#挿絵]の奥では、彼自身の像が希望と覇気を失ふて、永遠に孤独の路を帰へらうとする無言の旅人に変つてゐる。
馬耳老人は家へ帰つた。村の旧家であるが貧困のために極度の節約をしてゐたので、がらんどうの大廈には火気と人の気配が感じられなかつた。
弟の妻、三十になる都会の女。爽やかな美貌の女が出迎へにでて、帽子と外套をとる。
「今夜は来客がありますからね。闘犬のやうな荒々しい若者がくる筈だから……」
馬耳は病妻の寝室へ行つた。病妻は挨拶のために数分も費して僅かに頭の位置をうごかす。その部屋の縁側へ出て、いつものやうに馬耳は籐椅子に腰をおろした。
妻が病んでもう三年。彼が此の椅子に腰を下して遠い山脈と遥かの空を無心に仰ぎだしてから、もはや三年すぎてゐる。
病妻もやがて死ぬだらう。そして、妻は死んだといふ言葉…