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谷丹三の静かな小説
たにたんぞうのしずかなしょうせつ |
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作品ID | 45816 |
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副題 | ――あはせて・人生は甘美であるといふ話―― ――あわせて・じんせいはかんびであるというはなし―― |
著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「坂口安吾全集 01」 筑摩書房 1999(平成11)年5月20日 |
初出 | 「三田文学 第九巻第三号」三田文学会、1934(昭和9)年3月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 伊藤時也 |
公開 / 更新 | 2010-07-08 / 2016-04-04 |
長さの目安 | 約 13 ページ(500字/頁で計算) |
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私は祖国日本にいささか退屈を感じてゐる。とはいへ、日本人であることを如何ともなしがたい私にとつて、これは憂鬱な出来事である。いはば、私は私自身に退屈してゐるに違ひないといふ因果なふしあはせを自白しなければならないのである。
私はシニスムがきらひである。
人に自慰的な優越を与へる点に於てはシニスムほど強力なものはないかもしれない。シニスムを生活の武器とする限りは、人はかなり堅固な城壁の中で相当気楽な一生が送れるかもしれない。けれど、お前が太陽であるならば、お前はきつといつも日蝕の中にゐるのだらう。そして、シニスムの静寂と優越は甚だ貧困なものだと私は考へてゐる。大人げないと侮られてもかまひやしない。笑ひ泣き生き生きと悲しむ方がきつと豪華なことだらう。
お前は甘いぞと言はれることが、我々日本人にとつては骨身にこたへる一大苦痛であるらしい。けれど、行為の世界では人は大概あまいのである。あまくないのはお前の考への中でだけだ、不遜な頭の中でだけだ。そして、日本人の小説はあまくないことをのみ示威するために書かれたやうに大概あまくないものである。
外国の小説は、あのゴツ/\したバルザックでも、読みだしてまもなく、こいつ随分あまい奴だと思ふことができてしまふ。のみならず、あまくない日本人たちは、そのためにバルザックを放り出すこともできるであらう。併し読み終つてしまふと、決してあまいなぞと言つてゐられなくなる。我々の生活では行為の世界だけがほんものであり全てである。そして、甘くないお前の考へは余白のやうなものであるらしい。そこで、ややともすればチグハグなヘマなことばかりやりがちな、けれどもそれを憎むことはできさうもない此の変テコな現実といふものに静かに腰を下してみて、さて、我々の異常に辛辣な頭も暫く休め、そして頭をこの変テコな現実よりも辛くない程度に、つまり現実と同じ低さの平地へ置き並べて、静かに考へ直してみやう。さうすると、今までお前の考への中ではずいぶん見すぼらしく、だらしなく甘く浅薄なものだつた現実が、実は宇宙の全てであつたといふやうな途方もない滑稽に突き当つたりしてしまふ。そして辛辣な考への中では、星よりも遠く儚かつた夢といふ非現実的なものが、実は現実の姿の中で、しつかりと、ほんとに生き生きと宿つてゐるのだといふことが、はつきりした事実となつて分つてしまつたりする。すると、かねがねの睡眠では悪夢にばかり苦しめられがちな私は、まるで慌てた鮒のやうに喜んでしまつて、泪を流したりしながら、それでは生きやう……さうだ、ひとつ勇ましく生きてやらうと考へたりするといふ話である。私は生きることが好きなのだ。それだから、我々の行為以上に辛辣な学説や道徳は全く愛すことが出来ない。
私は人を圧迫する芸術といふものがあるとすれば、人を圧迫するといふ事柄だけで、それはもはや芸術とは…