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悲願に就て
ひがんについて |
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作品ID | 45828 |
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副題 | ――「文芸」の作品批評に関聯して―― ――「ぶんげい」のさくひんひひょうにかんれんして―― |
著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「坂口安吾全集 01」 筑摩書房 1999(平成11)年5月20日 |
初出 | 「作品 第六巻第三号」1935(昭和10)年3月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 伊藤時也 |
公開 / 更新 | 2010-06-29 / 2016-04-04 |
長さの目安 | 約 17 ページ(500字/頁で計算) |
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「文芸」二月号所載、アンドレ・ジイドの「一つの宣言」は興味深い読物であつた。ドストエフスキーが、又偉大なる作家達が全てさうであつたやうに、習慣的な人間観に抗して、人間の絶えざる再発見に努めてきたジイドは、ソヴェート聯邦に於て制度が人々を解放したばかりでなく、たうとう人間そのものを革めつつある事実に直面して、人間の発見もしくは改革が個人的な懊悩や争闘から獲られるばかりでなく、制度の変革からも獲られることを率直に認めたのである。
仏蘭西文学は仏蘭西大革命の準備はしたが、仏蘭西大革命は殆んど仏蘭西文学に影響を与へなかつた、と説き、「仏蘭西大革命は人々を解放することはできても人間そのものを革めることはできなかつた」と述べてゐる。この当否はとにかくとして、ソヴェート聯邦の実際を見るまで、制度が人間そのものをも革めるであらうといふことを彼は確信することができなかつたのは事実だ。私個人は常に習慣と闘つてきた、と彼は述懐してゐるが、彼の個人主義的な懐疑思想といふものは畢竟するに、彼の歴史観が、制度は人間そのものを革めはしないと信じさせてゐたことに起因すると見るのは不当でない。このことは一人ジイドに限られたことがらではないだらう。習慣と闘つた偉大な作家は全て、その教養によつてか本能によつて、制度は人間を革めないと思ひこんでゐたのであらう。
そこで、「文学は革命の準備はしたが、革命は文学に影響を与へない」といふジイドの見解は、ソヴェート聯邦の出現によつて「革命も文学に(人間そのものに)変革を与へる」といふやうに訂正されたわけになる。併しながら「文学は革命の準備をする」といふ彼の考へは勿論変らう筈はない。「ブルヂョワ的習慣があるやうに、共産主義的習慣もありうるのだ」と彼は言ふ、さうして、「文学は制度に奉公しなくともいい。隷属した文学は、党するところの主義目的がどれほど貴く、また正しくあつても、堕落した文学である。芸術は真実に没頭するときほど革命に役立つことは決してないのだ」と述べてゐる。
このことは制度の人間に与へる影響を認めたジイドにとつて尚も最も重大な問題であるとともに、ソヴェートの実状に就ては全く無智であり、また制度の人間に与へる革命的な役割に就ても彼のやうに確信のもてない我々の文学にとつても、矢張り最も重大な問題であらう。要するに共産主義的習慣もありうるのであつて、文学は常に習慣と闘ふこと、人間の再発見に努めること、このことは如何なる時、如何なる場合に於ても変りはないだらうと思ふ。さうして斯様な立場から文学に精進するところの作家にとつては、その静寂にして苛烈な内的闘争の永遠な懊悩に比べたなら、ジイドが示したやうな転向は極めて有りうることで些かも特殊な事情ではない。併し、このことが日本の多くの転向作家に当てはまるであらうといふことを私は全く肯定しない。
わが国では新…