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西東
にしひがし
作品ID45839
著者坂口 安吾
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 01」 筑摩書房
1999(平成11)年5月20日
初出「若草 第一一巻第一〇号」1935(昭和10)年10月1日
入力者tatsuki
校正者noriko saito
公開 / 更新2009-05-30 / 2016-04-04
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 路上で煙次郎と草吉が出会つた。草吉は浮かない顔付であつた。
「どうした? 顔色が悪いな。胃病か女か借金か?」
「数々の煩悶が胸にあつてね、黙つてゐると胸につかへて自殺の発作にかられるのだ。誰かをつかまへて喋りまくらうと思つてゐたが、君に出会つたのは、けだし天祐だな」
「いやなことになつたな」
「十日前の話だが、役所からの帰るさ図らずも霊感の宿るところとなつて、高遠なアナクレオン的冥想の訪れを受け法悦に浸りながら家路を辿つたと思ひたまへ」
「ウム」
「御承知の通り一ヶ月ほど前に先の住所から二三町離れたばかりの今の家へ移つたのだが、高遠な冥想に全霊を傾けてゐるから気がつかない。足は数年間歩き馴れたとほり、極めて自然に昔の住所へ辿りついてゐたんだね。ガラリと戸をあける、上り框へ腰を下して悠々と靴の紐を解いてゐると、背中の方に電燈がついて、どなた? といふ若い娘の声がした――」
「なるほど。そこで娘に惚れたのか。いやな惚れ方をする奴だな」
「先廻りをしてはこまる。聞き覚えのない声にハッと気付いて振向いたが、振向くまでもなくハッと我に帰つた瞬間には、日頃頭の訓練が行き届いてゐるせゐか、さては何か間違ひをやらかしたなといふことがチャンと分つてゐたよ。然しどういふ種類の間違ひをやらかしたかといふことになると、暫く娘の顔を眺めてゐたり、家の具合を観察したり、前後の事情を思ひ出したりしないうちは見当がつかなかつたね。そのうちに事の次第が漸次呑みこめてくると、流石に慌てるやうな無残な振舞ひはしない。騎士道の礼をつくして物静かに事の次第を説明すると風の如くに退出したが、さて我が家へ帰つておもむろに気がつくと、重大な忘れ物をしたことが分つた」
「重大だな。狙ひの一言を言ひ落したといふ奴だらう。名刺でも忘れてくるとよかつたな」
「人聞きの悪いことを言はないでくれ。役所でやりかけの仕事を入れた鞄を忘れてきたのだ」
「そいつは有望な忘れ物だ。それから――」
「取つて来ようと一旦街へでたが、てれくさくて気が進まない。ぶら/\してゐるうちに真夜中近くなつた。今更訪れるわけにもいかないし、翌朝だしぬけにおびやかすのも気がひけるから、あれかれと考へたあげく、最も公明正大な方法をもつて堂々と乗りこむことにきめたよ。何月何日何時に鞄を受取りに参上するといふ外交文書に匹敵する正義勇気仁儀をつくした明文をしたためて、翌朝出勤の途次投函したのだ」
「うむ。そこまでは兵法にかなつてをる」
「さて約束の当日がきて、役所の帰りにそこへ寄る予定になつてゐたので、まづ勇気をつけるためかねて行きつけのおでん屋へ立ち寄つた。と、穏やかならぬ発見をしたが、なんだと思ふ?」
「よくある奴だ。てつきり不良少女だよ。娘が男と酒でも呑んでゐたのだらう」
「さうぢやない。鞄がその店にあつたんだ。考へてみると、例の一件の起つた日も…

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