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長篇小説時評
ちょうへんしょうせつじひょう |
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作品ID | 45845 |
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著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「坂口安吾全集 03」 筑摩書房 1999(平成11)年3月20日 |
初出 | 「徳島毎日新聞 第一三五七五号、第一三五七九号~第一三五八一号」1939(昭和14)年3月25日、29日~31日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2008-11-02 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 12 ページ(500字/頁で計算) |
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(一) 農民小説の人間性
短篇小説は長篇小説の圧縮されたものだといふ考へ方をしてゐた人があつたやうだ。さういふ事は有り得ないことで、短い枚数で書きうる事柄であつたから短篇となり、長大な枚数でなければ書き得ない事柄であつたために長篇となるだけのことであらう。然しながら、短篇的な思考の型になれてみると、思考自体が長篇的になりにくくなる。長篇小説が流行しだしてから、まだ一年ぐらゐにしかならないのに、もう長篇はつまらないとか、短篇時代がくるだらうと言ひだす声があるのは、ひとつには、現今流行の長篇小説の内容が、短篇的に発育してゐないからではないかと思ふ。即ち多くの長篇は、短篇を引延したもの、或ひは冗漫な短篇といふ型である。最近読んだ七、八冊は概ねさうだつた。
特に僕が多大の期待をもつて読んだ農民文学には最も甚しく失望した。僕は元来農村といふ我々の都会生活とはかけ離れた生活形式によつて歪曲された人間性が、長篇といふ形式をかりて陸離たる光彩を放ちながら描破されはしないかと考へてゐたのであつた。この期待は余りにも外れすぎた。
打木村治氏の『部落史』は冗漫すぎる短篇と云ふべきものであつた。たゞ徒らな克明さで描写の筆を浪費したにすぎないものだ。克明に顔形や表情を描写する。酒をついだりつがれたりの酒宴の描写に数十枚を費す。
この小説は権力にひしがれながら、それに抗して生活と恋を建設して行く吾一とキクの物語が経線となつてゐるのであるが、この小説が人間性に根ざしてゐる深度といへば、二、三十枚の短篇で足りる程度の深さであらう。
農村の生活様式を描写報告するためには、決して小説の形式を必要としない。その様式の中の人間性を描くために、はじめて小説が必要となるのである。権力を濫用する者が常に悪玉で、しひたげられる者常に善玉とは限らない。権力富力を得れば濫用したがるのが恐らく凡人の避けがたい弱点でもあらう。さうした一応の観念的計量を終り又超えたところから文学は始まるべきものであらう。農村生活の形態は素朴であり、農民は素朴であるかも知れないが、その素朴を素朴に書くためにも、作家自体の観念が素朴であつては不可である。作品の裏側に書かれざる複雑な作家の観念がなければならない。『部落史』は冗漫すぎる描写によつて小説の形式として失敗し、人間性を度外視した弱者(形態上の)への偏愛によつて、小説そのものとして誤つてゐる。
丸山義二氏の『田舎』は西播磨のかなり裕福な農村と農民を描いた小説である。美人で働き者の嫁が、姑と小姑にいぢめられながらも、良人と隣人愛に生き、やがて良人の応召によつて、めでたしとなる。
若しもこの小説から、農村の生活様式の冗漫な描写を取去つたなら、いつたい何が残るだらうか、キングの通俗小説と同じものしか残らない。
それ以上の深さも高さもなく、悪いことには、それ以上に…