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日本の山と文学
にほんのやまとぶんがく
作品ID45848
著者坂口 安吾
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 03」 筑摩書房
1999(平成11)年3月20日
初出「信濃毎日新聞 第二〇五七五号~二〇五七八号」1939(昭和14)年8月16日~19日
入力者tatsuki
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-11-02 / 2014-09-21
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

   (一) 山の観念の変移

 我々の祖先達は里から里へ通ふために、谷を渉り、峠を越えはしたものの、今日我々が行ふやうな登山を試みる者はなかつた。
 支那の画家、文人等には山から山を遍歴し石涛のやうに山中の仙といふやうな生活ぶりの人達が相当居たといふことであるが、我々の祖先達にも山中歴日無しといふやうな支那の詩句が愛好され、山中に庵を結ぶといふやうな境地を愛した人は多いが、今日高山の登山になれた我々から見ると、いづれも山の麓程度に過ぎないのである。
 西行や芭蕉にしても、里人の通る山中の峠は越えてゐるが、わざ/\高峰に登るやうなことはなかつた。今日の我々にとつて山と詩情は、甚だ多く結びついてゐるのであるがこのやうな感情や感傷は、祖先達には殆ど無かつたことである。穂高もなく上高地もなかつた。

 橋本関雪氏の文章によると、同氏は再々支那の山河を跋渉されてゐるやうであるが、支那の南画の山水が決して現実を歪めたものではなく、あれがそのまま正確な写実であることが分るといふ話であつた。日本の画家が南画に写実を見ず、象徴的な筆法や形のみを学ぶのは誤りだといふ意味なのである。
 然し私は数年前京都の嵐山に住み、雨の日雲の低く垂れた嵐山や小倉山、保津川の風景に、日本の山水のふるさとを見て呆気にとられたことがあつた。日本画の山水の風景が実在することを納得させられたのであつた。
埋火のほかに心はなけれども向へば見ゆる白鳥の山
 香川景樹の歌である。日本の昔の文人詩人画家、自然を愛した人達の山を見る心は、概ね、この歌の心のやうなものではなかつたかと思ふ。登る山とは違つてゐた。心象の中の景物であり、見る山であつた。

 もつとも現実的な、世俗の中に生きてゐた祖先達の山の観念は、凡そまた意味が違ふ。それは恐怖の対象であり、転じて崇敬の対象であつた。
 さうして多くの伝説を生み、又主としてこの点で、文学とも結びついてゐるのである。
 山の伝説の主要なものは、空想的なものでは狐狸妖怪、現実的なものでは、鬼山賊のたぐひであるが、馬琴のやうな近世の碩学でも狐狸妖怪の伝説を真面目に書いてゐるのであつた。
「みな土俗の口碑に遺す昔物語にして、今は彼老狸を見たるものなしといへば、あるべきことならねど、童子の為に記すのみ、しかるやいなや、はしらず」
 こんな風な断りがきはしてゐるが、伝説の紹介ぶりは、証人の名をあげたり、御丁寧に地図まで載せて、決して「童子の為に」しるしてゐるやうな様子ではないのである。
 馬琴が地図入りで紹介してゐる伝説のひとつに佐渡二ツ岩の弾三郎といふ狸がある。前記の断り書きも、この狸のくだりに有るものである。

   (二) 出狐狸の役割

 佐渡ヶ島二ツ山の狸弾三郎の伝説は、馬琴の「燕石雑誌」に載つてゐる。
 また「諸国里人談」にも現れ「利根川図志」などにも引合ひに出されて…

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