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死と鼻唄
しとはなうた |
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作品ID | 45857 |
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著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「坂口安吾全集 03」 筑摩書房 1999(平成11)年3月20日 |
初出 | 「現代文学 第四巻第三号」大観堂、1941(昭和16)年4月28日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2008-10-17 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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戦争の目的とか意義とか、もとより戦争の中心となる題目はそれであつても、国民一般といふものが、個人として戦争とつながる最大関心事はたゞ「死」といふこの恐るべき平凡な一字に尽きるに相違ない。
僕は昔こんなことを考へてゐた。パリジャンは戦争もルーレットも同じやうに考へて鼻唄で弾をこめる。だから、戦争に強いであらう。然し、ヤンキーは、戦争もラグビーもてんで見境がない。奴等はことお祭騒ぎでありさへすれば、戦争であれ自動車競走であれ、チウインガムを噛みながら簡単に命を弄ぶ。だから、ヤンキーは一さう戦争に強いであらう、と。
然し、この考へは、マジノラインのあつけない崩壊と共に消えてしまつた。戦争――いや、命をすてるといふことが、一度戦争ともなればそれが無限に行はれる平凡な事実であるにも拘らず、決して鼻唄のうちに済んでしまふほど単純無邪気なものではないことが泌々分らせられたのだ。
戦争から帰つた人の話によると、戦地で一番つらいのは行軍だといふことである。へと/\に疲れてしまふ。突然敵が現れて発砲してくると、こつちも倒れて応戦するが、五分間でも行軍の労苦を休めるために、ホッとする。敵があつけなく退却すると、やれ/\又行軍かとウンザリするといふ話である。
この感想は数人の職業も教養も違つた人から同じことをきかされた。その人達の偽らぬ実感であつたに相違ない。
僕はこの実感を尊いと思ふ。その人達は、人の為しうる最大の犠牲を払つて、この実感を得たのであつた。けれども「これが戦争だ」と言ふことはできない。その人達が命を棄てた曠野に於て掴んだ実感であるにしても、それによつて「これが戦争だ」と断言するには、人の心は又余りに複雑でもある筈だ。
つまり、我々は戦争と言へば「死」を思ふ。「死」を怖れる。ところが、戦地へ行つてみると、案外気楽である。行軍に疲れたあげくには弾雨の下に休息を感じた。さういふ事実から割りだして「なんだい、戦争だの、死だなんて、こんなものか」と鼻唄なみに考へては早計であらうと言ふのである。
弾雨の下に休息を感じてゐる兵士達に、果して「死」があつたか? 事実として、二三の戦死があつたとしても、兵士達の心が死をみつめてゐたか? この疑問を忘れてはならない。
すくなくとも、兵士達が弾雨の下に休息を感じてゐるとすれば、彼等はそのとき「自分はこゝで死ぬかも知れない」といふ不安が多少はあつても、それよりも一さう強く「多分自分は死なゝいだらう」と考へてゐたに相違ないのだ。偶然弾に当つても、その瞬間まで彼等の心は死に直面し、死を視凝めてはゐないのだ。
このやうなゆとりがあるとき、兵士は鼻唄と共に進みうる。「必ず死ぬ」ときまつたときに、果して誰が鼻唄と共に前進しうるか。そのとき、進みうる人は超人だ。常人は「必ず死ぬ」となれば怯える。従而戦争を「死の絶望」に関してのみ見る…