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大井広介といふ男
おおいひろすけというおとこ
作品ID45874
副題――並びに註文ひとつの事――
――ならびにちゅうもんひとつのこと――
著者坂口 安吾
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 03」 筑摩書房
1999(平成11)年3月20日
初出「現代文学 第五巻第八号」大観堂、1942(昭和17)年7月28日
入力者tatsuki
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-10-21 / 2014-09-21
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 大井広介に始めて会つたのは昭和十五年大晦日午後七時、葉書で打合せて雷門で出会つた。その晩、大井広介は至極大真面目で、自分はインチキ・レビューの愛好家で、女性美はレビューの動きに極致があると信じてゐるから、自分の娘もレビューガールにするつもりである。三つの頃からレビューを見せて仕込んでゐるが、足が長くレビューガール向きの身体のくせに、生れつき踊りの才能がなくて閉口してゐる、とこぼした。酔つ払つてゐたわけではなく、至極マジメなものである。これは又評論書きにも似合はない奇々怪々な先生だと思つて、ひどく好きになつてしまつた。そこで「現代文学」の同人になることを承諾した。
 その後、大井君の家へ始めて訪ねたところが、裏長屋に永住して借金とりと口論ばかりして暮してゐる壮士だと思つてゐたのに、堂々たる大邸宅の主人公だつたので呆れてしまつた。と、僕の目の前へ、冬だといふのにシャツ一枚のやうな軽装で、娘が縄とびの縄をふり廻しながら飛びだして来たので、噴きだしてしまつたね。ある日、大井夫人が僕に向つて、うちの陣平(長男)は子供のくせに読書が好きで一日に三冊も本を読むので困ります。エラブ鰻だのべーリング海だの私の知らないことまで知つてゐて、あんな厭らしい奴つたら有りませんわ、と大憤慨である。そこへ大井広介が現れて、いや、まつたく、生意気なことばかり知りをつて、彼奴には困るです。忍術使ひの本を読ましてやらうと思つて本屋を探したですけど、近頃忍術使ひの本を売つとらんです。――いやはや、不思議な家族である。このウチでは毎日、否、毎時間、春夏秋冬、口論の絶え間がない。家族達は永遠に口角泡をとばして口論にふけり、来客に遠慮して中止するやうな惨めなことを決してやらぬ。大井広介は来客との対談を突然中止したかと思ふと、遠く離れた部屋の家族に向つて先刻の口論の続きを吠え始め、うちの母は米を炊くことを知らんくせに、それを自慢にしとるです。言語同断です、するとオッカサンが忽ちバタ/\駆けつけてガラリと障子をあけ、何も自慢にするかいな、女中が沢山ゐて米を炊かなんでよかつたけん知らん言ふとるだけのことぢや。その言ひ方がもう自慢にしとる。女中が沢山ゐたから知らんといふことがあるか。大騒ぎである。掛物を破り、竹刀をふり廻し、盛大なもので、実に楽しさうである、ちつとも暗くなく、惨めでない。喧嘩禁止令といふものが発令された際にこの家族はどうなるだらう。家は沈黙の咒にみたされ、この家族は枕を並べて厭世自殺をとげるであらう。よそのウチでは喧嘩といふと先づ瀬戸物を投げたり割つたりするさうだけれども、あの音響は甚しく非芸術的で心ある人士の決して好まぬところである。蓋し大井家では春夏秋冬休むことなく口論が行はれ高価なる掛物などが破り去られて行くけれども一枚の皿を割つたといふ話をきかぬ。甚だ奥ゆかしいと言はねばならぬ。
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