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![]() ぶんがくとこくみんせいかつ |
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作品ID | 45878 |
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著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「坂口安吾全集 03」 筑摩書房 1999(平成11)年3月20日 |
初出 | 「現代文学 第五巻第一二号」大観堂、1942(昭和17)年11月28日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2008-10-21 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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パヂェスの「日本切支丹宗門史」だとか「鮮血遺書」のやうなものを読んでゐると、切支丹の夥しい殉教に感動せざるを得ないけれども、又、他面に、何か濁つたものを感じ、反撥を覚えずにゐられなくなるのである。
当時は切支丹の殉教の心得に関する印刷物があつたさうで、切支丹達はそれを熟読して死に方を勉強してゐた。潜入の神父とか指導者達はまるで信徒の殉教を煽動してゐるやうな異常なヒステリイにおちてをり、それが第一に濁つたものを感じさせる。
切支丹は抵抗してはいけない掟であるから、捕吏に取囲まれたとき、わざ/\大小を鞘ぐるみ抜きとつて遠方へ投げすてゝ捕縄されたなどゝいふ御念の入つた武士があり、かういふものを読むと、その愚直さにいたましい思ひをよせられ、やりきれない思ひになる。
然し、彼等の堂々たる死に方には実際感動すべきものがあるのであつて、始めのころは斬首や磔であつたが、その立派な死に方に感動して首斬りの役人まで却つて切支丹になる者がある始末、そこで火炙りを用ひるやうになり、それも直接火をかけず、一間ぐらゐ離れた所から灸るやうにし、縄目をわざと弛めておいた。といふのは、彼等が見苦しく逃げ廻つたりすることの出来る余地を与へるわけで、見物にまぎれて刑場をとりまいてゐる信徒達に彼等の敬愛する先輩達の見苦しく取りみだした様をみせつけて改宗をうながすよすがにするためであつた。この火炙りにかゝると一時間から三四時間生きてゐるのが普通であつたが、見苦しく取りみだして逃げ廻つたりするのは極めて稀れで、大概は身動きもせず唯一念に祈念の声を放ちつゞけて堂々と死に、その荘厳さに見物人から多数の切支丹になる者が絶えなかつた。結局二十年目に穴つるしといふ刑を発明したが、手足を縛して穴の中へ逆さに吊すのださうで、これにかゝると必ず異様滑稽なもがき方をするのがきまりで、一週ぐらゐ生きてゐるから、見物人もウンザリして引上げてしまふ。苦心二十年やうやく切支丹の死の荘厳を封じることが出来、その頃から切支丹がめつきり衰へた。
このやうに彼等の宗門に殉ずる一念たるや真に感動すべきであるに拘はらず、どうしても純粋に感動できないのは、彼等がもつと大きな世界の事情に認識をもたないことに対する不満などが有るせゐにもよるが、又一つには、彼等が外国人の指導によつて動いてゐたといふことに対する反感も忘れるわけには行かぬ。外国の宣教師それ自身に対しては反感は持てないのだけれども、外国人の指導に服すといふ日本人の信徒達に対して、どうしても打ち解けきれぬ不満を消すわけに行かぬ。島国根性の狭量と言つてしまへば、そんなものかも知れぬけれども、理知では割りきれぬ本性のひとつで、どうにも仕様がない。
僕は時局的な小説などは決して書く気持ちがなく、さういふ僕に人々は時局認識がないなどゝ言ふかも知れぬが、然し、僕は何を書いても決して間…