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講談先生
こうだんせんせい
作品ID45880
著者坂口 安吾
文字遣い新字旧仮名
底本 「坂口安吾全集 03」 筑摩書房
1999(平成11)年3月20日
初出「現代文学 第六巻第三号」大観堂、1943(昭和18)年2月28日
入力者tatsuki
校正者noriko saito
公開 / 更新2008-10-13 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 僕は天性模倣癖旺盛で、忽ち人の感化を受けてしまふ。だから、人の影響はのべつ受けてばかりゐて、数へあげればキリがない。けれども、この人には負けたくない、といふやうな敵意を持つ場合もあるもので、「この人の作品を読むと惹きこまれるから、もう読むまいと決心するやうなこともあつた。これが本当の影響を与へた人かも知れないが、かういふ本当の書斎の中へは他人を入れたくないから、僕は語らない。

 僕は今書いてゐる歴史小説に、かなり多く「講談」から学んだ技法をとりいれてゐる。講談の技法を小説にとりいれたら、と考へたのは十年ぐらゐ昔からのことで、それは、フランス・写実派の技法が、僕の観念とどこかしら食ひ違ふところから、なんとなく心を惹かれ始めたのである。
 写実、つまり、文字で描くといふことは、トリビヤリズムに堕し易く、思ふことの中心を逸することが多い。小説は元来「語る」べきもので、第一に、さう考へた。語るやうに書く、といふのは当然の話だけれども、僕の言ふのは別の意味で、「講談」のやうに、と言ふことだ。講談は語る人の性格があんまり出ない。フランス風の写実は、語り手の性格が出すぎて、事物の実体をくらまし易いと思つた。
 近頃の例で言へば何々参謀談といふ作戦談のやうなものがそれで、あそこにも語る人の性格は失はれ、事実そのものが物語るやうな力になつてゐる。
 僕がこのことに具体的に気がついたのはスタンダールの小説を読んだときで、スタンダールが、いはゞ、外国的講談口調の語り手なのである。スタンダールは描写や説明といふことを、やらない。
 日本の講談には語り手の性格がないやうに、語られてゐる人物にも性格がない。善玉悪玉の型があるばかりである。これは演者の教養や観点が固定してゐるからで、かういふ最悪の欠点は学ぶ必要がないけれども、然し、之を逆に言ふと、スタンダールも型だけしか書いてゐないのだ。
 だが、スタンダールは常に創作し、進歩する。新らしい型が生れてゐる。之だけが講談と違ふ。尤も、これ一つ違ふだけで、月とスッポンの違ひになる。
 講談それ自体は馬鹿らしいものだけれども、我々は、どこから何を学びとつても、値打には変りがない。
 講談は自分が歴史を見てきたやうに語つてゐる。「まことに困つた奴でございます」とか「かう言ひながら蔭で赤い舌をペロリと出しました」などゝ実に心易いもので、私がちやんと見てきたのだから、文句は言はずに、信用しなさい、といふ立前なのである。
 小説の技法に大切なのは、事実性、説得力といふもので、之には色々の技術がある。或ひは作者の感傷に托して事実性を維持しようとしたり、こくめいな描写によつて実感を盛り上げようとしたり、様々だ。各々、作者その人の身についた技法があるから、良し悪しは一概に言はれぬことで、自分の方法を身につけることが第一であらう。
 僕が講談の方法を面白…

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