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安吾人生案内
あんごじんせいあんない
作品ID45918
副題03 その三 精神病診断書
03 そのさん せいしんびょうしんだんしょ
著者坂口 安吾
文字遣い新字新仮名
底本 「坂口安吾全集 11」 筑摩書房
1998(平成10)年12月20日
初出「オール読物 第六巻第七号」1951(昭和26)年7月1日
入力者tatsuki
校正者深津辰男・美智子
公開 / 更新2009-11-12 / 2014-09-21
長さの目安約 31 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     妻を忘れた夫の話  山口静江(廿四歳)

『これが僕のワイフか? 違うなア』行方不明になって以来三ヶ月ぶりでやっと三鷹町井ノ頭病院の一室に尋ねあてた夫は取り縋ろうとする私をはね返すように冷く見据えて言い切るのでした。いくら記憶喪失中の気の毒な夫の言葉とはいえ余りの悲しさに、無心に笑っている生後五ヶ月の長女千恵子を抱いて思わずワッと泣き伏してしまいました。思い起せば四月廿三日何気なく某紙夕刊を見ますと『日本版心の旅路、ウソ発見器は語る犯罪と女――突然記憶を失った男』という三段抜きの記事と共に過去を思い出そうと考えこんでいる男の写真が出ているのでした。それが夢にも忘れることの出来なかった夫だったではありませんか。記事によると同月十四日銀座西八丁目の濠ばたで浮浪者がたき火を囲んでいると飄然と現われた廿五六歳、シルバーグレイのレインコートを着た色白の身なりのいゝ青年が現れて話しかけたが様子が変っているので築地署に連れて行ったところ『あゝ何もかも忘れてこの世に突然生まれたような気がする』というので詳しく聞くと近くの公衆電話の中で急に意識が霞み、扉をあけた若い女のアッという叫び声で意識を取り戻したがそれを境として過去の記憶は落莫とした忘却の彼方に消え自分の名も住所も年も忘れて銀座をさまよっていたのでした。それから井ノ頭病院の精神科へ送られ先生達の診断を受けたところ電話ボックスの中以来のことは常人同様はっきり覚えているし文章も巧く英語も話すが、完全な逆行性健忘という病気であるということが分りました。しかもアミタールという麻酔剤で半酔状態にされ話した所によると父死亡、母健在、兄三人のうち二人戦死、嫁した姉妹があるなどの家族関係がぴったりあっているのです。驚いた私は夫の兄(横須賀市浦郷五二二山口万福)のところへかけつけると義兄も『弟らしい』と新聞を見ていってるところでした。夫は山口袈裟寿といゝ廿五歳、神田の市立工業を出て横須賀の航空技術所を出て海軍に入っていました。終戦後神奈川県庁地下室で時計屋をしている兄の所で昨年八月まで手伝していましたが十一月に長女が生まれ私の実家(横須賀市)で一緒に暮していました。今年の一月『職を探して来るから』といって出たまゝ消息がなく私は途方に暮れているところでした。その夫が今は井ノ頭病院に一切の過去を失っているというのですから、私は義兄と義姉=夫の姉静子(二九)=と長女と四人で取る物も取りあえず廿四日病院にかけつけました。主治医の曾根博士は私達から一通りの話を聞き終ったあと『ネクタイの裏にコタカ、ズボン下にトクサワとありますが本人に間違いないようです』といわれ姉と私を待たせ、暫くすると看護服を脱いで色とり/″\の私服姿をした五人の看護婦さんの間に私たちを交えてしまいました。やがて呼吸曲線測定器をつけた男が現われました。まぎれもない夫です…

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