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日本の真の姿
にほんのしんのすがた
作品ID45973
著者竹越 与三郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「日本の真の姿」 石井氏還暦記念講演会
1938(昭和13)年11月17日
入力者kamille
校正者小林繁雄
公開 / 更新2010-06-17 / 2014-09-21
長さの目安約 40 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 只今後藤さんから御紹介を得まして、頗る過當な御評價でくすぐつたい思ひを致しました。併ながら名物に旨いものなしと申しますから、御紹介通りのことを申上げることが出來るか、頗る自信を缺いて居ります。私は今晩は日本の眞の姿と云ふことに付てお話を申上げたいのであります。希臘の哲學者の言葉に、人間第一の務は己を知ると云ふことだと申して居ります。洵に適切の言葉と思ひます。是と同じく日本人は日本自體を知らなければならぬと思ふのであります。所が日本に付ての知識と云ふものは極めて貧弱なもので、吾々は第一東京に住んで居つて東京全市がどうなつて居るかと云ふことは能く分らない。向ふ三軒兩隣しか實際知らない。其他は風の噂、新聞の報道などで想像して居るやうな譯であります。吾々日本のことに付て色々言ふが、實は日本のことをはつきり分つて居る人はどの位あるか頗る疑問なのであります。それで日本を先づ寫して見なければなりませぬ。其寫す鏡が頗る乏しいのです。所謂山鳥のおろの鏡で、山鳥と云ふものは自分の體が非常に綺麗だと思つて、河へ臨んで自分の姿を寫して、あゝ綺麗な鳥だと思つて居る中に自分自ら迷つて水に落ちて死んでしまふ、愚ろかな鳥です。之を山鳥のおろの鏡と申します。日本を寫す鏡はどうも山鳥のおろの鏡もなきにしもあらず、又正しき鏡を持つて居つても其鏡は目を寫すなり、鼻を寫すとか、部分的にしか寫らないで、六尺大の一枚磨の大きな硝子へ寫すと云ふやうな鏡を持つて居る人は甚だ少いやうに思ふのです。そこで私は日本の眞の姿はどうなつて居るかと云ふことを研究して見たいと思ふのであります。
 日本に付ては三つの見方があると思ふのです。第一に外國人が見た日本、是は幾ら上手な油繪描でも西洋人が日本人の顏を描くと、目は吊上つて齒が飛び出て髮の毛が棕櫚見たいに突立つて居る妙な顏を描く、ポンチの顏を描く積りでないが、西洋人が描くと日本人がさう寫るのです。さう云ふことのあるやうに、日本も西洋人が見ると兎角間違ひ易い。第二には日本人自體が間違つて居る。近世文明と云ふが是は皆西洋人から借りたものである。西洋なかりせば日本は發達しない。是は西洋から歸つて來たり、新しい學問をする人がさう思ふ。第三は我國は神國であつて決して他國と同じ國でない、隨神の國であるから外國などと質が違ふのであると云ふ神憑の議論である。此三つがあると思ひますが、是は固より間違ひと思ひます。外國人がどうして間違ふかと云ふと、日本が嘉永六年亞米利加のペルリに迫られていや/\ながら國を開いたのでありますが、それから四十何年明治三十年頃には立派な近世化した日本となつた。西洋各國では封建時代の域を脱して近世國家となるのには長きは三百年、短いのでも百五十年掛かつて居る。然るに日本は僅に四五十年で近世日本を拵へた。不思議だ、ミラクルである、是はどう云ふ譯であらうか、此ことは餘…

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