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![]() あさ |
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作品ID | 4598 |
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著者 | 田山 花袋 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「短篇小説名作選」 現代企画室 1981(昭和56)年4月15日 |
入力者 | 土屋隆 |
校正者 | 林幸雄 |
公開 / 更新 | 2004-07-21 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 21 ページ(500字/頁で計算) |
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一
家の中二階は川に臨んで居た。其処にこれから発たうとする一家族が船の準備の出来る間を集つて待つて居た。七月の暑い日影は岸の竹藪に偏つて流るゝ碧い瀬にキラキラと照つた。
涼しい樹陰に五六艘の和船が集つて碇泊して居るさまが絵のやうに下に見えた。帆を舟一杯にひろげて干して居るものもあれば、陸から一生懸命に荷物を積んで居るものもある。此処等で出来る瓦や木材や米や麦や――それ等は総て此川を上下する便船で都に運び出されることになつて居た。その向こうには、某町から某町に通ずる県道の舟橋がかゝつてゐて、駄馬や荷車の通る処に、橋の板の鳴る音が静かな午前の空気に轟いて聞えた。
橋のすぐ下では、船頭が五六人、せつせと竹の筏を組んで居た。
『婆様、小用が出ないか。船に乗つて了うと面倒だからな』
七十近い禿頭の老爺が傍に小さく坐つて居る六十五六の目のひたと盲ひた老婆にかう言ふと、
『それぢや、面倒でも今一度連れて行つて貰うかな』
やがて婆さんは爺さんに手を曳かれて静に長い縁側を厠の方に行つた。
『よくそれでも世話を見なさるな』
これを見て居た六十五六の今一人の老爺は、傍に居た五十二三の主婦に話しかけた。
主婦は老人や子供の世話に忙殺されて居た。荷積の指図もしなければならなかつた。送つて来て呉れた人々の相手にもならなければならなかつた。長い間住んだ土地を別れて来るに就いてのいろ/\の追懐や覊絆もあつた。
『中々あの真似は出来ませんよ』
かう言つたが、丁度其時今歳十一になる弟の方が縁の方に駈けて下りて行くを見付けて、
『正や、川の方に行くと危ぶないぞ!』
白絣を着てメリンスの帯を緊めた子は、それにも頓着せず、急いで川の下の方に下りて行つた。其処にはもう十六になる兄が先に行つて居た。岸に繋がれた一艘の船には、長い間田舎家の茶の間に据ゑられた長火鉢だの、茶箪笥だのがそのまゝ積まれてあつた。
『それ、あの船だぜ!』
兄はかう弟に言つた。
『どれや、どの船?』
『それ、火鉢があるぢやないか』
其船の船頭は目腐れの中年の男で、今一人の若い方の船頭は頻りに荷物を運んで居た。髪を束ねた上さんは苫やら帆布やらをせつせと片付けて居た。
一家族は此処から一里ほど離れた昔の城下の士族町から来た。老人夫婦に取つても、主婦に取つても、長年住み馴れた土地や親しい人々に別れて来るのは辛かつた。東京に行つて、知らぬ土地の土になるのは厭だ! かう目の盲ひた婆さんは言つた。長年苦労した種に芽が生えて、十分ではなくても、兎に角子息が月給取になつて、呼んで呉れるのは嬉しいが、東京といふ処は石の上の住居、一晩でも家賃といふものを出さずには寝られない。それよりはどんなにあばら屋でも、自分の家で足を長くして寝て居る方が好い。主婦もいざとなつてからかう言ひ出した。しかし月給取になつた子息を一人都に…