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芳川鎌子
よしかわかまこ
作品ID45987
著者長谷川 時雨
文字遣い新字新仮名
底本 「新編 近代美人伝 (上)」 岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年11月18日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2007-05-14 / 2014-09-21
長さの目安約 36 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

       一

 大正六年三月九日朝の都下の新聞紙は筆を揃えて、芳川鎌子事件と呼ばれたことの真相を、いち早く報道し、精細をきわめた記事が各新聞の社会面を埋めつくした。その日は他にも、平日ならば読者の目を驚かせる社会記事が多かった。たとえば我国の飛行界の第一人者として、また飛行将校のなかで、一般の国民に愛され、人気の高かった天才沢田中尉が、仏国から帰朝後、以前の放縦な生活を改めて自信ある、自らの考案になった機に乗って斯界のために尽そうとした最初の日に墜落して名誉の犠牲者となったということや、米国大使が聖路加病院で逝去されたことなどが報じられた。それらの特報は大きな注目を受けなければならないのに、多くの人の目は多くというより、その悉くが鎌子夫人事件の見出しの、初号活字に魅惑されてしまった。
 まだ世人の記憶に新らしいその事件の内容を、委しく此処に並べないでもいいようにも思うが、けれども、ずっと後日に読む人のためには必要があるだろう。この事件もまた二人の人間の死んだことを報じたのだが、そのうちの一人が生返ったのと、その死にかたが自殺だったのと、その間に性的問題が含まれていたのと、身分位置というものがもたらす複雑な事情があった上に、その女性が華族の当主の夫人であるという、上流階級の出来ごとであるために、世の耳目を集めたうえに、各階級の種々の立場によって解釈され、論じられたのだった。ことに新らしい思想界の人々と、古い道徳の見地に立つ人との間には、非常に相違した説を互いに発表したりした。が、そうした立場の人たちの間にこそ、同情と理解をもって論じられもしたが、その以外では、侮蔑と嘲弄の的となった。ことに倫落した女たちは、鬼の首でも取ったかのように、得々揚々として、批判も同情もなく、殆ど吐きだすような調子であげつらうのを聞いた。また場末の寄席などの下劣な芸人は白扇で額をたたいて卑狼な言葉を弄したりした。堕落した学生たちは「運転手になるのだっけ」というような言辞をもてあそんで恥なかった。それよりも甚しいのは、我身の魂でなければならないはずの妻にむかって、女性はみなかくあるものだというような、奇矯な言葉を費やして、自らの品性までも低めてかえり見ないものさえあった。いうまでもなく、その事件は、爪はじきをするのも余儀ない人妻の「心中事件」である。けれどもそれほど不倫の行為と厭む人たちが、男女相殺の恋愛の苦悩を述べ、歎き訴えるものには、同情を寄せるのはどうしたものだろう。浄るりに唄われ、劇化され、小説となってその道程を語る時には納得し、正しく批評し、涙をもおしまない人たちが、何故現実のものに触れるとそうまで冷酷になるのであろう。それはいうまでもなく、芸術の高い価値はそこにあるとしても、私が不思議でならないことは、昨日あった事柄を報道するにあわせて、かくもあろうかとの推測を、その周…

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