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ひどい煙
ひどいけむり
作品ID46091
著者久生 十蘭
文字遣い新字新仮名
底本 「久生十蘭全集 Ⅱ」 三一書房
1970(昭和45)年1月31日
初出「オール讀物」1955(昭和30)年7月号
入力者門田裕志
校正者芝裕久
公開 / 更新2020-03-14 / 2020-02-21
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 飯倉の西にあたる麻布勝手ヶ原は、太田道灌が江戸から兵を出すとき、いつもここで武者揃えをしたよし、風土記に見えている。大猷院殿の寛永の末ごろは、草ばかり蓬々とした、うらさびしい場所で、赤羽の辻、心光院の近くまで小山田がつづき、三田の切通し寄り、菱や河骨にとじられた南下りの沼のまわりに、萱葺きの農家がチラホラ見えるほか、眼をさえぎるほどのものもないので、広漠たる原野のおもむきになっていた。
 六月はじめのある日、この原にオランダ人献上の大臼砲を据えようというので、御鉄砲御用衆といわれる躑躅の間詰のお歴々が、朝がけから、露もしとどな夏草を踏みしだき、間竿を持った組下を追いまわして、射場の地取りをしていた。
 和流砲術の大家、井上外記正継、稲富喜太夫直賢、田付四郎兵衛景利の三人が鼎のかたちになって床几に掛け、右往左往する組下の働きぶりを監察していた。
 井上外記は播磨国英賀城主井上九郎右衛門の孫で、外記流の流祖である。鉄砲の射撃にかけては、精妙、ならぶものなしといわれた喜太夫の父、一夢斎稲富直家が慶長十六年に駿府で死んでから、外記が天下一の名人の座についた。
 大阪役ののち秀忠に仕え、大筒役として八百石、家光の代に御鉄砲御用衆筆頭大筒方兼帯を仰付けられ、世禄千八十石、役料三百俵、左太夫と通称する、代々、世襲の家筋になり、同役、御用衆のうち、鉄砲磨組支配田付四郎兵衛景利とともに大小火砲、石火矢、棒火矢、狼煙、揚物、その他、火術の一般を差配することになった。
 稲富喜太夫は、父から稲富流の秘伝をうけて独得の技芸を身につけ、町打ちといって、大砲の遠距離射撃にかけては、名人の域に達していたが、父が家康の抱きかかえを脱して、尾張侯に仕えたため、喜太夫は秀忠の代になっても、依然として、新参同様の扱いをうけ、寛永も中頃になって、ようやく御鉄砲玉薬奉行に任官し、高六百石、焼火の間詰[#ルビの「まづ」は底本では「まづめ」]めになった。
 玉薬奉行というのは、鉛、煙硝の丁数分合や火薬の製造を取締まる与力並みの職分である。喜太夫は砲術のほか、大砲張立(鋳造)の諸元にも通饒しているので、おのれの技術に満々の自負をもち、父が身の処置を軽々しくしなかったら、御鉄砲御用衆筆頭の職分は、当然、稲富家に下し置かれていたろうと思い、その辺に、尽きぬうらみを抱いていたが、世襲ときまった職分を侵すセキはない。子の喜三郎直之を督励して、砲術と大砲張立の技を練磨させることで、ひそかに鬱屈をいやしていた。
 陽がのぼるにつれて、暑気が強くなった。野面いちめんに草いきれがたち、蒸風呂のなかにでもいるようで、腹背から、ひとりでに汗が流れ走る。
 地取りが終ると、磨組の同心は大工どもを急がせて、試射の標的になる小屋の建前にかかった。オランダ商館長のカロンの仕様には、間口十二間、奥行十五間の地面に、相向いに五軒…

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