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川波
かわなみ
作品ID46095
著者久生 十蘭
文字遣い新字新仮名
底本 「久生十蘭全集 Ⅱ」 三一書房
1970(昭和45)年1月31日
初出「別冊文藝春秋 第五十一号」1956(昭和31)年4月
入力者門田裕志
校正者芝裕久
公開 / 更新2020-11-28 / 2020-10-28
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 第二次大戦がはじまった年の七月の午後、大電流部門の発送関係の器材の受渡しをするため、近くドイツに行くことになっていた大電工業の和田宇一郎が、会社の帰りに並木通りの「アラスカ」のバアへ寄ると、そこで思いがけなく豊川治兵衛に行きあった。
「よう、いつ帰ったんだ」
「つい、この十日ほど前に……用務出張でね、またすぐひきかえすんだ」
「おれも急に出かけることになったんだが、戦争ははじまりそうか」
「それはもう時期の問題だ。今日、チャーチルと英国の陸相がわざわざ巴里へやってきて、観兵式を見ている最中だよ。七月十四日の巴里の観兵式も、たぶん、これが最後になるのだろう」
 治兵衛は豊川財閥の二代目からの分家の当主で、金持ちの馬鹿息子に共通したずぼらなところがあり、ぬうっとした見かけをしているが、ときには、この男がと思うような鋭い才気を見せることもあった。色が白く、頬が巴旦杏色に艶に赤らみ、彫のある曰くありげな指輪をはめたりしているのも、板について気障な感じがしなかった。オックスフォード大学にいるとき、C宮が遊学に来られ、豊川も学友の一人にえらばれてモードリン・カレッジへ移るようにとすすめられたが、そういうおつとめはできかねると辞退した一件もあって、その階級のタイプにしては、徹底した一面を持っているようだった。
「いやに、はっきりいうじゃないか」
「これでもおれは密偵だからね。戦争のはじまる時期くらい、見当がつくだろうさ」
 だいぶ底が入っているらしく、なにか曖昧なことをいいながら、だるそうに窓際の長椅子の上に長くなった。
 豊川は本家の会社で若さと熱情のかわらぬ信義をつくして精進したおかげで、財界理論派の若手のホープとして、重役陣へのゴール・インが約束されていたが、昭和十二年の秋、突然、企画院の経済科学局へ入って戦時資材の調査にヨーロッパへ派遣され、間もなく巴里駐在員になった。
 軍部との抱合を、できるかぎり回避するというのが、五大財閥の伝統的な方策だったが、それを裏切ってまで、なんのつもりで総力戦を支持する新秩序に積極性を示そうとするのかと、真意を知らぬ財界の若手連中を呆れさせたものだが、豊川がそれとなく告白したところでは、実情は、だいたいつぎのようなものだった。
 日本は昭和十二年の秋から参謀本部の総力戦五カ年計画にもとづいて、広汎な軍事資材の購入にかかっていた。銅の輸入は七割増、鉄鉱石は十割増、銑鉄と屑鉄は二十五割増、高オクタン価の航空用ガソリン生産のための「四エチール鉛」にいたっては、厖大な量を輸入しようという肚であった。その他、プラスチック(飛行機の耐破ガラス)、爆薬製のフェノール、アセトン、トルオール、戦略的軽金属のマグネシウム、現在、生産高七千六百万円程度の工作機械製造を、十六年には二億円に拡充する飛躍的な目標をたて、あらゆる方面へ原料輸入の触手を伸ばして…

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