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雪間
ゆきま
作品ID46098
著者久生 十蘭
文字遣い新字新仮名
底本 「久生十蘭全集 Ⅱ」 三一書房
1970(昭和45)年1月31日
初出「別冊文藝春秋 第五十六号」1957(昭和32)年2月
入力者門田裕志
校正者芝裕久
公開 / 更新2021-01-28 / 2020-12-27
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 宮ノ下のホテルを出たときは薄月が出ていたが、秋の箱根の天気癖で、五分もたたないうちに霧がかかってきた。笠原の別荘の門を入ると、むこうのケースメントの硝子の面に夜明けのような空明りがうつり、沈んだ陰鬱な調子をつけている。急に冷えてきたとみえて、霧の粒が大きくなり、いつの間にか服がしっとりと湿っている。
 うねうねと盛りあがった赤針樅の根這いにつまずきながら玄関のほうに行こうとすると、木繁みの間からほのかに洩れだす外灯の光の下で、笠原の細君の安芸子と滋野光雄が向きあって立っているのが見えた。
 二尺ほどの間隔をおいて向きあっているが、それはただそうしているというのではなく、激情をひそめた静の姿勢だと思われる。そういった切迫したようすがある。
「これは弱った」
 伊沢ほどの齢になると、他人の情事を隙見させてもらっても、かくべつ啓発されるようなことはない。することがあるなら、なんでもいいから早くすましてしまえとジリジリしていると、滋野の手がそろそろと伸びだし、なんともいえないやさしいようすで安芸子の肩に触れた。
「はじまった」
 伊沢は舌打ちをしながら額に手をあてた。
 ねがえるなら、あまりひどい光景にならないようにと念じているうちに、こんどは安芸子の手があがって行き、滋野の胸のあたりを撫でるようにしながら、なにかささやいた。
 伊沢の耳には、とうとう、あなたも……と聞えた。
 模糊とした霧の渦の中で、二人の影が動いたような気がした。たぶん、なにか新しい発展をするのではないかと恐れているうちに、風が出て霧が流れ、また情事の舞台があらわれだしたが、霧に濡れた下草がそよいでいるばかりで二人のすがたはもうそこにはなかった。
 昼すぎホテルから電話をかけたら、笠原は仙石原でゴルフをしているということだったので、時間をはかってやってきたのだったが、細君がこんなことをしているようでは笠原はまだ帰っていないと思うしかない。
 長い硝子扉の側面につづく翼屋のようになった二階の窓に灯がついた。ラリーク式の窓の大きな部屋で、赤味がかった、カーテンの裾のあたりに淡い光が滲んでいる。丈の低いフロアスタンドの夜卓に置いたサイドランプの光なので、すると、あそこが笠原の細君の寝室なのだろうと、そんなことを考えながらぼんやりと見あげているうしろから、誰かにぐっと服の襟を掴まれた。
 なにを言うひまもない。襟がみを掴んだままズルズルと押して行き、赤針樅の幹にこじりつけると、いまのところ撲りつけることしか考えないといったように、息をきらしながら頭のところをむやみに撲りはじめた。
 伊沢は両手で顔をふせぎながら、されるままにぐにゃぐにゃしていたが、いつまでたってもやめない。正体のない暴れかたをするところをみると、酔っているのかもしれない。いい加減にやめさせるほうがいい。
「もういいだろう。それく…

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