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雲の小径
くものこみち
作品ID46099
著者久生 十蘭
文字遣い新字新仮名
底本 「久生十蘭全集 Ⅱ」 三一書房
1970(昭和45)年1月31日
初出「別冊少年新潮」1956(昭和31)年1月
入力者門田裕志
校正者芝裕久
公開 / 更新2021-05-14 / 2021-04-27
長さの目安約 34 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 時間からいうと、伊勢湾の上あたりを飛んでいるはずだが、窓という窓が密度の高いすわり雲に眼隠しされているので、所在の感じが曖昧である。
 大阪を飛びだすと、すぐ雲霧に包みこまれ、それからもう一時間以上も、模糊とした灰白色の空間を彷徨している。はじめのころは、濛気の幕によろめくような機影を曳きながら飛んでいたが、おいおい高度をあげるにつれて、四方からコクのある雲がおしかさなってきて、旅客機自体が溷濁したものの中にすっぽりと沈みこんでしまい、うごめく雲の色のほか、なにひとつ眼に入るものもない。咽び泣くような換気孔の風の音と、佗びしいほどに単調なプロペラの呻りを聞いていると、うらうらと心が霞んできて、見も知らぬ次元に自分ひとりが投げだされたようなたよりのない気持になる。
 この三年、白川幸次郎は、月に三回、旅客機で東京と大阪をいそがしく往復しているが、こんな夢幻的な情緒をひきおこされたのは、はじめての経験だった。どんよりとしているが、それでいて、暗いというのでもない。漠とした薄明りが、遠い天体からさしかける光波といったぐあいに、灰色の雲のうえにしらじらと漂っているところなどは、香世子が形容する死後の世界の風景にそっくりで、白川は脇窓の風防ガラスに額をつけたまま、
「ひどく、しみじみとしていやがる」
 とつぶやいた。
 とりとめのない、こういう灰色の風景は、悩ましい、胸をえぐるような、そのくせ、なつかしくもある痛切な心象につながっている。香世子がこの世から消えてしまったのは、もう三年前のことだが、まだその影響からぬけきれずにいる。白川も、これでは困ると思うのだが、いちど焼きついた心象は、払えば消えるというようなものではない。
 十二月二十五日の朝、市兵衛町の交番から電話の通達があった。
「奥さんが、交通事故で亡くなられたそうで、そちらへおしらせするように、築地署から通達がありました。死体は聖路加にありますから、印鑑を持って、すぐ引取りに来てください」
「ちょっと、もしもし……それは、なにかのまちがいでしょう。私には家内なんかありませんがね」
「二号でも三号でもいいですが、ともかく、すぐ来てください」
 雲の低く垂れた雪もよいの朝がけ、白川が聖路加へ行ってみると、ハンドルのかたちに、胸に丸い皮下溢血の血斑をつけた二宮の細君の香世子が、窮屈そうに屍室の寝棺におさまって、眼をつぶっていた。
 クリスマス・イヴの十時すぎ、酔ったいきおいで築地のほうへ車を飛ばし、四丁目の安全地帯にぶっつけた。救急車で聖路加へ運ばれ、意識不明のまま二十五日の払暁まで保っていたが、間もなく苦しみだし、七時ごろ息をひきとった。臨終に、麻布市兵衛町、白川幸次郎の妻と、はっきり告知したと係官が白川につたえた。
「白川幸次郎の妻」の一件は、二宮に知らせずに無事におさめたが、臨終の告知は、息苦しい重…

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