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フランス伯N・B
フランスはくN・B |
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作品ID | 46109 |
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著者 | 久生 十蘭 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「久生十蘭全集 Ⅲ」 三一書房 1970(昭和45)年2月28日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | まつもこ |
公開 / 更新 | 2019-10-06 / 2019-09-30 |
長さの目安 | 約 32 ページ(500字/頁で計算) |
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そのころセント・ヘレナという島にはなにか恐しい悪気があって、二年目にはかならず死んでしまうといわれていた。警備のためにセント・ヘレナへ派遣されていた英国の一士官がロンドンの家族へこんな手紙を書いている。
東へ五百リーグ(二千海里)行けばアフリカの大陸があるという記憶が、発狂する危険からわずかにわれわれを守ってくれる。
南太平洋のあらゆる航路から隔絶され、無限の海の上に点のように置かれた島。赤道附近で暴風に逢ったときのほかはいかなる航海者にも用のない不毛の島。暗い谷間と岩山。急な坂ばかりで平らな地面など一トアーズもない。半年の間、蒸気釜から吹きだしてきたような暑い霧が冬のロンドンのようにどんよりとたちこめ、それが晴れると、赤道直下の焼けつくような太陽が直射してあるだけのものをみな乾しあげてしまう。
土人はなにをしてやっても喜ばない憂鬱なやつらで、植物といえば、ひょろひょろの野生のゴムの樹だけ。豊富なのは猫ほどもある大きな鼠だ。夜になると、そいつは樹のてっぺんまでのぼって行って眠っている小鳥をみな食ってしまう。
食物は野生の山羊の肉と腐った魚。水兵も兵隊も、英国へ帰ることばかり考え、一日も早くナポレオンが死んでくれるようにと祈っている。われわれは兵隊のように正直なことはいえないので、下等なラムを飲んで喧嘩ばかりしている。
ロング・ウッドという五百米もある山の頂にあるナポレオンの配居は、難破船のよせあつめのような、窓枠もないみじめなボロ小屋で、廊下の一部を毛布で仕切って浴槽を置き、そこをナポレオンの浴室にあてていた。
ナポレオンにたいして慇懃すぎるというので、前任が罷免され、有名なハドソン・ロオが総督(センチュリー百科辞典には governor 総督とあるが、フランスのラルウスには ge[#挿絵]lier 獄卒となっている)になってやってくると、食費は自弁という規則をつくった。セント・ヘレナへ送られる途中、金も宝石も手形もみなとりあげられ、わずかばかりの金を隠して持っていただけだったので、間もなくナポレオンはじめ随員一同、文字通りの無一文になり、銀の食器や燭台を売ってそれを食費にあてた。
一八一六年にサヴァリー元帥(ド・レヴィゴ公)がジョージ・タウン(セント・ヘレナの町)の雑貨屋の主人へこんな手紙を書いている。
「いまわれわれのところにパンも珈琲も砂糖もない。数日前から、飲むことと食うことになると、われ勝ちに先を争うようになっている。信じられないでしょうが、事実です。
いつかマルコルム号の船長が来たとき銀の皿一枚について百二十ルイ払うといった。それとおなじ値段で買ってくださる方はないものだろうか。皇帝の命令で、鷲の絞章を[#「絞章を」はママ]磨りつぶしてしまったので、記念品にはなりません。銀の値段で買っていただければ有難い。返事はフォーピンに…