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淪落の皇女の覚書
りんらくのこうじょのおぼえがき
作品ID46110
著者久生 十蘭
文字遣い新字新仮名
底本 「久生十蘭全集 Ⅲ」 三一書房
1970(昭和45)年2月28日
入力者門田裕志
校正者まつもこ
公開 / 更新2019-05-29 / 2019-04-26
長さの目安約 58 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

第一部 皇帝の死刑

 沼の多い雪の平原のむこうにペテルブルグの円屋根や尖塔が輝き、空のはてはフィンランドのほうへ低く垂れている。
 一九一七年十一月、顔まで泥をはねあげた赤衛軍の一団が金色の象形文字や帝室の鷲のついたツァルスコイエ・セロの灰色の拱門をぬけ、降り積んだ雪を踏みながら重苦しそうに大通のほうへ行進して行く。弾薬車をつけた砲車や武装した労働者を満載したトラックがめまぐるしく行きちがい、大通の両側の畑で塹壕を掘っている。
 ペテルブルグではメンシェヴィキがボルシェヴィキと戦っていたが、どの劇場も満員で、伊達な軍服を着た士官がホテルの撞球室で玉を撞き、貴婦人達はサロンに集ってツァーに復位して貰いたいとか、早く独逸の軍隊がやってくればいいなどと上品な声で話しあっていた。
 三月に退位したニコラス二世はアレクサンドラ皇后、アレクシス皇太子、オリガ、タチアナ、マリーヤ、アナスタジアの四人の皇女といっしょにシベリヤのトボルスクの配所にいる。ほのかな消息がいろいろな方法でそれとなくつたわってくる。皇帝の一族は健在で、ツァーなどはトボルスクへ移されてから却って元気になったということだった。
 その月の末、ボルシェヴィキがケレンスキー内閣を倒して政権を樹立し、チェカ(反革命取締委員会)の組織ができるころになると、ペテルブルグの様相が一変し、皇帝一族の動静などはまるっきりわからなくなってしまった。その年が暮れ、十八年の五月の中頃、ツァーがトボルスクからウラル山中のエカテリネンブルグへ転送されたとか、されるはずだとか、そんな噂がぼんやりとひろがった。百五十哩ほど文明のほうへ近くなったわけで、悪い兆候でないように思われるが、それも臆測だけで、どういう生活をしているのか、はたして生きているのか、殺されてしまったのか、その辺のところは雲をつかむようだった。
 ところでこちらはたいへんな騒ぎだった。ウィリッキーがチェカの委員長になって、「旧ブゥルジョアジィの男女を下層民の墓掘りに任命す。この労働を拒否するものは銃殺」という布告が出た日から、貴族、旧大官、帝政主義者の集団屠殺がはじまり、ペテルブルグとモスクワの貴族社会は墓場に一変してしまいそうな形勢だった。頭の中にツァーの回想を忍ばせていたりすると、チェカの密偵が眼の色だけで見ぬいてしまう危ない加減の日々になり、退位した皇帝一族の思い出なぞにかかずらっていられなくなってしまった。
 七月十七日、労農ソヴエトはペテルブルグ・イズヴェスチャー紙に、先帝ニコライ・アレクサンドロウィッチとその家族がエカテリネンブルグで処刑されたという公報を出した。公表されたのはそれだけで、補足も説明もなにもない。チェカの追いまわしに疲弊した皇族や貴族大官の心には漠然とした嫌悪の念をおこさせただけだったが、この公報はロシア以外の国々にはかりしれぬ衝動をあ…

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