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肌色の月
はだいろのつき
作品ID46147
著者久生 十蘭
文字遣い新字新仮名
底本 「久生十蘭全集 Ⅵ」 三一書房
1970(昭和45)年4月30日
初出「婦人公論」中央公論社、1957(昭和32)年4~8月号
入力者tatsuki
校正者ロクス・ソルス
公開 / 更新2008-10-06 / 2014-09-21
長さの目安約 104 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 運送会社の集荷係が宅扱いの最後の梱包を運びだすと、この五年の間、宇野久美子の生活の砦だった二間つづきのアパートの部屋の中が、セットの組みあがらないテレビのスタジオのような空虚なようすになった。いままで洋服箪笥のあった壁の上に、芽出しの白膠木の葉繁みがレースのような繊細な影を落しているのが、なぜかひどく斬新な感じがした。
 管理人の細君が挨拶にきた。
「おすみになりましたか」
「ええ、あらかた……ながながお世話になりました」
「宇野さん、和歌山なんだそうですね」
「ええ、和歌山よ」
「お郷里へお帰りになるんだって。テレビであなたの顔を見られなくなると思うと、さびしいですわ」
「こんなふうに休んでばかりいるんじゃ、ろくな仕事はできないでしょう。ほうぼうへ迷惑をかけるばかりで……二、三年、郷里でのんきにやって、また出なおしてくるわ」
「焦っちゃだめよ、ね。仲さんみたいなことになるのは不幸すぎるわ」
「あたしはだいじょうぶ」
「じゃ、お大切にね。元気で帰っていらっしゃい」
「ありがとう」
 管理人の細君がひきとると、久美子はボール・ペンをだして、戦争の間、疎開していた伊那の谷の奥の農家へハガキを書いた。
 伊那はいま藤のさかりでしょう。みなさま、お元気のよし、なによりです。先日、勝手なことをおねがいしましたが、さっそくご承知くださいましてお礼の申しようもございません。今日、日通から身の廻りのものを貨物便で送りました。ちょっと和歌山へ帰って、それからそちらへ伺うようになりますので、それまで雑倉の隅へでもお置きくださるようおねがいいたします。
 もう仕残したことはなにもない。衣裳と小道具の入ったボストン・バッグをさげて部屋を出るだけ。ハガキをポストに投げこんで、どこかの安宿で衣裳を換えて、たぶん伊東行の湘南電車に乗る……。
 宇野久美子は完全犯罪を行なおうとしている。ただし、久美子の場合、殺そうというのは他人ではなくて自分自身なのであった。
 ……生活するということは、昨日と明日の継ぎ目を縫うことだと、なにかの本に書いてあった。ラジオ劇場の台本にあったセリフだったかもしれない。
「うまいことをいうもんだわ」
 久美子は出窓の鉄の手摺子に凭れ、眼の下の狭い通りを漠然とながめながら唇の間でつぶやいた。
「この人生に明日という日が無いということは、継ぎ目を織る、今日の分の糸がないということなんだ」
 久美子は生存というものを廃棄するために、というよりは、自分という存在を上手にこの世から消すために、その方法をいろいろと研究した。想像力の及ぶかぎり、可能なあらゆる場合を想定し、プロットを立て、それに肉付した。これならばというプランを一月以上も頭の中にためておき、いくどもひっくりかえしてみて、完全だという確信ができたので、さっそく実行することにした。
 二年ほど前の秋、おなじ声優…

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