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商機
しょうき |
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作品ID | 4616 |
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著者 | 長塚 節 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「長塚節全集 第二巻」 春陽堂書店 1977(昭和52)年1月31日 |
入力者 | 林幸雄 |
校正者 | 今井忠夫 |
公開 / 更新 | 2004-04-08 / 2014-09-18 |
長さの目安 | 約 12 ページ(500字/頁で計算) |
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汽車から降りると寒さが一段身に染みる。埓の側に植ゑた櫻の枯木が強い西風に鳴つて居る。彼は思はず首を引つこませた。さうして小さな手荷物を砂利の上に卸して毛糸の白い襟卷を擴げて顎から口へ掛けて包んだ。彼の乘つた上り列車が停車場へついた時に待つて居た下り列車が煙突から白く蒸氣を吐いて徐ろに出て行つた。停車場を出ると埃が吹つ立つて居る。遙か先の立場からがたくり馬車の喇叭が頻りと聞えて來る。汽車から下りた客は人力車に乘るものぽつ/\と蹙かまつて歩くもの大抵は町の方へと急ぐ。彼は今水戸から來たので此處から或町へ行く目的である。預て定期の馬車が出るといふことを知つて居たのですぐに喇叭の鳴る方へ行つた。革の手綱を執つて馭者臺に喇叭を吹いて居た馭者は近づく彼の姿を見て
「さあ出ますよ」
ぱか/\と蹄の音をさせてる馬をぐつと引き締めながら催し立てる。然し彼はちつとも慌てなかつた。彼の容子を見ると心に何か蟠りがあるやうでもあるが其活々した底力のある容貌は決して愁あるものではないといふことを知らしめる。八人乘の馬車にはもう客が七人詰つて居る。彼はやつと身を割り込んだ。さうして手荷物を膝に載せて白い毛糸の襟卷を捲き直して鳥打帽を少し前へ引いた。馭者は舌を上へ捲いてキツ/\キと口の中で妙な聲をさせて革の手綱を緩めると馬は首を前へのめす樣にして蹄を立てゝ二足三足と重相に歩き出した。其時小豆色の頭巾をかぶつた若い女が小さな荷物を手に提げて安物の塗下駄をぽか/\と叩き付けながら
「乘せておくれよ」
と駈けて來た。馭者は
「もう一杯ですよ」
「何だね人を、知らない振して」
女は意外にも叱り付けるやうにいつた
「いゝから別嬪なら乘せてやれえ」
乘客の一人がいつた。
「お客さん方それぢやどうぞもつとこつちへお詰めなすつて、もう一人乘るんですからね、そつち側の方です、ええこつちは私が乘つてますからこつちへ乘ると片荷に成つて車の運びが惡くていけませんからね」
馭者はズツクをまくつて客の方へ顏を半ば表はしていつた。ズツクは寒さを防ぐ爲に三方へ垂れて馬車の中を薄闇くして居る。後だけは括つた儘である。
「あなたこつちへ臀を持つて來て……さうです、さうすればいくらでも掛りますから」
馭者は臺の右の端へ臀を据ゑて居る。其左の空席へ掛けて斜に一番鼻の客を掛けさせた。四人の客は懶相に身體を動かす。女は漸くのことで乘り込んだ。
「どうも皆さんお氣の毒さま」
いひながら二三度顏をしがめて据らぬ臀を動かした。さうして左の袂を引つこぬく樣にして膝へ持つて來た。女はそれから頭巾をとつて車臺の外へ出して埃をぱさ/\と叩いて復たかぶつた。口が稍弓なりに上へ反つて顎のがつしりとした勝氣らしい顏である。少し雀斑はあるが色白な一寸人目を惹く。端の明るい處に掛けてるので小豆色の頭巾姿が引つ立つて見えた。それに人を人臭いとも…