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スポーツの美的要素
スポーツのびてきようそ
作品ID46164
著者中井 正一
文字遣い新字新仮名
底本 「中井正一評論集」 岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年6月16日
初出「京都帝国大学新聞」1930(昭和5)年5月5日、21日、6月5日
入力者文子
校正者鈴木厚司
公開 / 更新2006-08-20 / 2014-09-18
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 1

 スポーツが人々によって研究され始めたのは、それを遊戯の一部としてであった。遊戯論については多くの人々が関心をもっている。それを今類別するならば大体五つに分れるかと思う。まず第一は剰余エネルギー論というべきものである。シラーが『人間の美的教育論』にのべており、スペンサーがその『心理学原論』にのべ、ジャン・パウル、ベネケ、シェリー、グラント・アレン、カール・ミュラー、ハドソン、パウル・スーリアン等が支持するところのものである。それは余れるエネルギーの放散のために、有用ならざる行為を人間がする。それが遊戯であるという考え方である。シラーの考え方はこれを浪漫派の愛好する甘き無為にまで関連せしめる。
 第二は生活準備説ともいわるべきカール・グロース、チーグラー、ワイズマン等によって支持さるるものである。それは第三の自然的遺伝的本能説(ウォール、ヴント)と関連して、動物の生存本能としての猟、戦、育児、模倣等の一つの表現であると考える。
 第四はラツァルス、スタンダール等の気晴らしのためという考え方、すなわち一方の機能の過度の使用によって来る疲労を他の用いざる機能の使用によって回復せしめるために遊戯があるという考え方である。
 第五はパトリック等によって支持さるる精神分析的に「抑圧の開放」の意味における遊戯の解釈である。
 私は今スポーツの美的要素を分析するにあたって、これらの遊戯論の一々に深入りすることをむしろ避けよう。ただそれらのものが一つの本能であるとして記述され、そのもたらす快感は本能の満足にあると解釈されていることを注意しておきたい。本能の概念は、リップスが自らそれを学問の屑籠といったがごとく、それに投ずることであたかもすべての問は掃蕩されつくしたるごとくその進行を停止している。むしろそこから私達はバトンを受取り彼等のゴールラインを私達のスタートラインにすべきではないかと思われる。

 2

 フッサールはその『論理的研究』において遊戯をもって「記号の位置転換的構成」の例としている。あるいは数学的意味の代入における「象徴的運用」として将棋の例を用いている。それは彼が遊戯の研究を目的とせずに、いわば偶然的にその思惟過程に現われしものにかかわらず、大きな暗示の影を遊戯の研究の上に投げるものである。
 すなわちそれは、遊戯の現象が我々の人間的構造、すなわちその機構的フンクチオンの深い象徴的運用として存在するのではないかということに対する問題の呈出である。ソッシュールは将棋の運用構造を言語哲学的構造に適用して、相似的代入に成功している。スポーツが存在の内面的組織構造の象徴的運用ではあるまいか? という問はスポーツの上に投げかけるべき親しき問であると私は考える。ことにスポーツが芸術の領域より寂しく放逐されている時においてなおさらである。またさらに近代性の一つの流…

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