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狂馬
きょうば |
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作品ID | 46178 |
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著者 | 佐左木 俊郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「佐左木俊郎選集」 英宝社 1984(昭和59)年4月14日 |
初出 | 「新青年」博文館、1931(昭和6)年7月号 |
入力者 | 田中敬三 |
校正者 | 林幸雄 |
公開 / 更新 | 2009-04-24 / 2014-09-21 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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炭坑の坑は二つに区別されている。竪坑。斜坑。――地上から地下へ垂直に、井戸のように通うているのが竪坑で、斜坑は、地上から地下へ、勾配になって這入って行くのだから樹木に掩われた薄暗い坂路を連想させる。
斜坑は、動物の通路を第一の目的として掘られたものであろう。炭坑に蒸気機関や電動機の採用されていなかったころ、人間の肩や背の他には、馬が一切の労働力を供給していたのだから。炭坑に機械力が這入って来てから、馬は、次第に廃れて行ったのであるが、古くからの炭坑へ行くと、今でも、馬の残っているところがある。
青!(その馬は若い時からそう呼びならされていた。)
青は鉱山主の温情主義から、坑の中に養われていた。十何年間を、地の底の暗闇の中に働いていたのであったが、最早すっかり老衰してしまって、歩くことさえも自由ではなくなっていた。併し、青は、坑内に働いている誰からも愛されていた。惨めな老人を労るようにして労られていた。
「青! なんとしたことだい。青! 少し元気出せよ。ほう! ほう! ほら!」
坑夫達はそんな風に言って、そこを通りかかる度毎に、青の鼻先へ触ってやるのだった。併し青は、黒い鼻先をほんの微かに蠢めかすだけであった。感覚の一切を、過去の生活の中へ置き忘れて来てしまったようにして、森の中の沼のような暗い眼を向けているのだった。その眼が果たして見えるのか見えないのか、ただじっと、暗い空間の一点に向けて据えているのだった。
「青! 本当にお前はどうしたのよ。おう? 元気がなくなったなあ。青! ああ、俺の飯が残っているから、お前に少しやろう。」
併し青は、坑夫達がそうしてくれる飯も、ほんの少しきり食わなかった。それも、一度口の中に入れたものを、思い出したようにしては噛み、またしばらくじっとしていて、思い出したようにしては、また噛むのだった。
青は本当に生きているのか死んでいるのかわからなかった。それは襤褸で拵えた馬のようでもあった。硝子玉の眼を嵌め込んだ剥製の馬のようでもあった。
「俺達も、年を取れば、青のようになるんだろうなあ。青! 俺達も今にこの坑の中でお前のようになるんだよ。お前よりももっともっと惨めになるかも知んねえ。」
「それはそうよ。人間も馬も変わりがあるもんじゃねえ。なあ青!」
坑夫達はいつもそんなことを言うのであった。
*
青が養われている場所には、夜になると、若い働き盛りの馬が二三匹繋がれた。
若い馬は、ぴしりっぴしりっと尾を振った。虻がいるのでも蚊がいるのでもない。ただぴしりっぴしりっと無暗に尾を振った。人が通りかかると、首を高く持ち上げて(ほほほ!)と嘶いた。脚を上げては石炭の破片を踏み砕いた。何をやっても、がつがつとそれを喰った。明るい世界から引き込まれて来たばかりの馬は、全身が感覚で、全身が力だった。
青は、この…