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蜜柑
みかん
作品ID46182
著者佐左木 俊郎
文字遣い新字新仮名
底本 「佐左木俊郎選集」 英宝社
1984(昭和59)年4月14日
初出「随筆」1927(昭和2)年2月号
入力者田中敬三
校正者林幸雄
公開 / 更新2009-04-24 / 2014-09-21
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

     一

 お婆さんはもう我慢がしきれなくなって来た。けれども彼女は、しばらくの間を薄い襤褸布団の中で、ただ、もじもじしていた。
 厚い板戸を隔てた台所の囲炉裏端では、誰か客があるらしく、しきりと太い話し声がやりとりされている。折々大きな笑い声も洩れて来る。慥かに誰かが来ているらしい。お婆さんは布団からそおうっと顔を出して見た。併しお婆さんは、また躊躇した。そして室の中を見廻した。
 室の中にも晩秋の寂寥は感じられた。障子の上には、二尺ぐらいの高さのところまで、かんかんと陽があたっている。死に残った四五匹の蠅が、陽のあたった白い部分で、ぶぶうっと紙に突きあたっている。ところどころの、破れて垂れ下がった紙の上には、薄黒く埃が溜まっていた。
 台所の囲炉裏端からは、再び大きな笑いの声が起こった。
「本当、豆でも買って、まめになんねえで、どうもこうも……」
 ひどく嗄れた、老人らしい声であった。
「ほんでえ、俺家の婆様にも豆買いでもさせんべかな。」とお婆さんの伜の治助は笑いながら言った。
「此方の家の婆様なんか、何が……りっきとした息子があんのに。」
 老人らしい声は、語調を力めて言った。
 慥かに誰かが来ている。――とお婆さんは思った。そう思った瞬間、客があるという意識で、お婆さんは小児のような心理状態に置かれた。
「松! 松! 松はいねえがあ?」
 お婆さんは、咽喉に引っ掛かるような声を搾って、二番目の孫娘を呼んだ。併し、それにはなんの答えもなかった。
「松! 水一杯呑ませで呉ろちゃ。」と、お婆さんは続けた。そして咽喉をごくりと言わせた。
 やはり、なんの答えも返っては来なかった。一時杜絶えた囲炉裏端の話し声は、再びひそひそと続けられているらしかった。お婆さんは、青い静脈の浮いている瞼を静かに閉じた。そして唇を動かした。また咽喉がごくりと鳴った。
「駄目だ駄目だ。水なんか呑ませじゃ駄目だ。婆様は水を呑ませっとすんぐに寝小便だから……」
 こう言っている声を、たしかにそう言っている声をお婆さんは聞いたように思った。
 蒼白い瞼の陰には、いろいろな場面が繰り展げられた。六十幾年間の自分自身の苦闘の姿であった。そこには、寝小便ばかりではない。食事最中にまで、自分の懐で糞をした伜や孫がいた。そして、一旦老衰の床に就くと、一杯の水さえ自由に与えられない自分自身の姿が、自分の瞼の裏に描かれていた。
 障子の上で、ぶぶうっと紙に突き当たっていた蠅が一匹、お婆さんの瞼へ来てとまった。お婆さんは閉じたままの瞼をひくひくと微動させた。蠅はすぐに飛び去った。睫毛の間には、小粒の涙滴が、一列に繁叩き出された。

     二

 お美代が土瓶と飯茶碗とを持ってはいって来た。足音でお婆さんは布団の襟に眼をこすりつけた。
「婆さん、ほら、水持って来したで。」
「うむ、水!――どうも…

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